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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年4月号

文学にみる障害者像

芥川龍之介著『地獄変』

桐山知彦

芥川と精神障害との関わり

芥川龍之介は明治25年に生まれ、35年という短い生涯の中で数多くの短編を遺した。芥川と精神障害との関わりは強い。死の前年、芥川は亡き母を回想し、以下のように記している。

僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。(中略)こう云う僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。なんでも一度僕の義母とわざわざ2階へ挨拶に行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覚えている。(『点鬼簿』)

晩年の芥川は神経衰弱となり、幻聴、幻視に悩まされたという。その体験は『歯車』や『或阿呆の一生』等、後期の代表作のモチーフになったとも言われる。芥川はそんな自らの境遇を亡き母に重ね合わせたと思われる。芥川は息子たちに宛てた遺書に強い調子でこう警告している。

汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。(『わが子等に』)

芥川は母の“発狂”を自らの血に組み込まれた不吉な予言と捉えていたのだろう。そして彼は自らの息子たちにもその予言を下している。芥川はいつからか、それを逃れることのできない運命であると認識していたのだろう。

芥川と“絵画”との関わり

芥川は文学のみならず絵画においても非凡な才能を発揮し、河童の絵や自画像などの絵を遺している。そして、芥川は母との数少ない思い出の一つとして絵を描く母の姿を記している。

僕の母は如何にももの静かな狂人だった。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使うばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすってくれる。唯それ等の画中の人物はいずれも狐の顔をしていた。(『点鬼簿』)

母の影響もあってか、幼少時の芥川は画家を志望していたという。このことからも芥川は絵に対する関心、親しみを人一倍持っていたことが伺える。

『地獄変』の絵師良秀

地獄変の屏風絵を描く絵師良秀の強烈なまでのエゴイズムとその死を描いた『地獄変』は、大正7年、芥川が26歳の時に発表した作品である。

主人公・良秀の年齢は50ほどで、その年齢に不相応なほど目立って唇が赤く、骨と皮ばかりにやせて背が低く、立ち居振舞が猿に似ているということから“猿秀”という渾名(あだな)をつけられている。また、性格は吝嗇(りんしょく)で欲深く、恥知らずで、怠け者、横柄、傲慢、意地が悪く、その上自分ほどの偉い人間はないと思っており、人柄はいたって卑しいと小説の語り部によって徹底的に扱(こ)き下ろされている。そんな良秀は行動にも奇異な点が多く、巫女に憑き物があった際にその巫女の“物凄い顔”を丁寧に写したという話や、死骸の腐れかかった顔や手足を髪の毛一すじも違えずに写したという話、弟子を裸にして無理やり鎖で縛りあげ、床に這いつくばった姿をあちこちと回って眺めながら模写したという話が記されている。

このような常軌を逸した被写体探しを繰り返し、良秀は弟子たちに「(良秀が)気が違って、私を殺すのではないか」と思わせるほどの恐怖を植えつけた。芸術のためとはいえ、これほどの奇異な行動を平然と成し遂げられる良秀のパーソナリティーは精神病質傾向にあるとも解釈できる。

一方で、良秀のパーソナリティーは最高の芸術作品を残す上で適応的な側面を持ったとも思われる。良秀は“本朝第一の画師”であり、その絵は見る者に幻覚を抱かせるほどの逸品である。良秀の手による五趣生死の図は、見た者に天人の溜息(ためいき)や啜(すす)り泣きを聞かせたり、死人の腐ってゆく臭気を嗅がせたりするなどの幻覚を呼び起こさせたという。良秀はパトロンである大殿様にこう言っている。「私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。」良秀の絵が一級品である所以はその技術力もさることながら、多くの憎悪や侮蔑の目に晒されてもそれを意に返さず、醜いもの、禁忌とされるものを執拗に見ようとする所にあると思われる。「かいなでの絵師には総じて醜いものの美しさなどと申すことは、わかろうはずがございませぬ」という良秀の言葉は、彼独特の感性を如実に表している。

見たものを描くことでしか納得のいく作品を描けないという彼の信念は、地獄変という彼の最高傑作を創作する上で適応的に作用した。しかし最愛の娘を失い、良秀自身をも滅ぼす結果を招いてしまったという上では極めて破壊的に作用したとも言える。

良秀の娘

良秀には娘がおり、大殿様の侍女として働いている。ある時、大殿様より「褒美にも望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め」と言われた際、良秀は「なにとぞ私の娘をばお下げ下さいますように」と申し出た。良秀は娘を「気違いのよう」に溺愛していたのだった。

地獄を目の当たりにする良秀

ある時、良秀は大殿様に地獄変の屏風絵を描くよう言われる。彼は5、6か月間仕事に取り組んだが、行き詰まりを覚える。地獄変の中央に位置する燃え上がる牛車の絵が描けないのである。牛車には着飾った女が乗っており、女は燃え上がる炎の中で悶え苦しんでいなければならない。良秀は目で見たものしか描くことができない。そして、彼は恐ろしい構想を大殿様に打ち明けた。大殿様は不敵に笑い、実際に着飾った女を牛車に乗せ、そこに火を放つことを良秀に約束する。

2、3日後の夜に“その時”は訪れた。牛車の簾を開くと、そこにいたのは鎖に繋がれた良秀の娘だった。火が放たれた牛車の中で、娘は髪をふり乱して悶え苦しむ。それを目の当たりにした良秀は苦悶の表情を浮かべる。

しかし、火がいよいよ牛車を包み込み、火焔が柱のようになったとき、良秀は思いもよらない表情を顕(あらわ)にする。

その火の柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、――なんという不思議な事でございましょう。あのさっきまで地獄の責苦に悩んでいたような良秀は、今は言いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、佇んでいるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。ただ美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――そういう景色に見えました。

“狂気”の機能

良秀は最愛の娘が悶え苦しみながら焼き殺されるのを見ることで、真の地獄と、そして信じられないことではあるが限りない恍惚を味わった。そのような異常な体験をした場合、人の心はどのような形になるのであろうか。おそらく彼の人格はこの世のものではなくなったのだろう。良秀は地獄変をひと月で大殿様に献上し、その次の夜、自ら死を選ぶ。良秀は地獄を描くために地獄を見る必要があった。しかし、その心は地獄に耐えることができなかった。良秀の信念が彼自身を滅ぼしたのである。

だが、良秀は確かにその唯一無二の異常な体験を屏風絵として表現する術を持っていた。小説の語り部は完成した地獄変の恐ろしさ、そして荘厳さを次のように述べている。

その女房の姿と申し、また燃えしきっている牛車と申し、何一つとして炎熱地獄の責苦を忍ばせないものはございません。いわば広い画面の恐ろしさが、この一人の人物に湊っているとでも申しましょうか。これを見るものの耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝わって来るかと疑うほど、入神の出来映えでございました。(中略)それ以来、あの男を悪く言うものは、少なくともお邸のだけでは、ほとんど一人もいなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、いかに日頃良秀を憎く思っているにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱を如実に感じるからでもございましょうか。

良秀特有の感性と異常なパーソナリティーは、極上の芸術作品を創る上で不可欠なものだったのである。

芥川も良秀も、突出した才能を持っていた。それ故に彼らは、他者に理解を求めることが難しいような体験を芸術という形に昇華することができた。しかし、それは彼らの精神を分裂させることでもあったのではないだろうか。最終的には自らの命を絶ったという点からも、芥川の晩年は絵師良秀の姿に重なって見える。26歳の芥川は何を思って『地獄変』を書き上げたのであろうか。

(きりやまともひこ 鳴門教育大学大学院人間教育専攻)