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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年6月号

情報アクセスとコミュニケーション保障

伊藤英一

1 「平等な社会」に向けたコミュニケーション保障の取り組み

障害者権利条約の批准に向けた意見交換会が2008年11月、東京都新宿区において実施された。そこに参集したのは、90年代に「パソコン通信」を障害者の社会参加の足がかりにしたいとボランティア活動を中心に活躍してきた方々であった。

パソコン通信とは、パソコンと電話回線を利用した電子掲示板システム(BBS)で、パソコンさえ利用できれば身体が不自由であっても、それらを意識せずに意見交換ができた。当時は文字中心のキャラクタユーザインタフェース(CUI)であったことから、視覚障害者と聴覚障害者とが直接、意思疎通ができた。しかし、科学技術の進歩とともに画像中心のグラフィカルユーザインタフェース(GUI)へと移行したことで、多数の支援技術研究における代替手段開発の成果はあるものの、平等な情報アクセスを保障するためにはまだ難題が山積している。

さて、今日の多種多様な代替手段の存在から、それぞれに異なる目的や役割があるという点に注目したい。つまり、コミュニケーションや情報取得に必要な代替手段を当事者自身が選択する機会の確保(改正障害者基本法第3条3)のためには、どのような代替手段が当事者自身にとって有効・有益なのかを判断し、自ら選択できるようエンパワメントすることが重要な取り組みとなる。

同様に、コミュニケーション支援や情報アクセスに必要な支援者養成や情報アクセシビリティの確保(改正障害者基本法第22条)は社会的責務であるが、「点字を用意する」「手話通訳をつける」というパターナリズムに陥ることなく、当事者が自分自身に適した代替手段を選択できる環境を提供することが基本であり、具体的な法制度の整備につなげていかなければならない。

国際障害分類(ICIDH)が国際生活機能分類(ICF)に改訂されて11年が経過し、ようやく制限をもたらす原因として「社会的な障壁」が追加された(改正障害者基本法第2条)。社会生活において最低限必要となる情報保障のみならず、多様な情報媒体と共に必要な支援サービスを当事者自身が選択でき、障害の有無にかかわらず公平で相互に理解しあえる社会にすることが望まれる。本稿が、コミュニケーションについての理解を深め、平等で等価な情報保障とは何かを考える機会となれば幸いである。

2 コミュニケーションとは何か

コミュニケーションとは、感情や意思、情報などを送り受け取り、あるいは伝達しあうことを意味する。単なる情報伝達にとどまらず、情動としての共感や共鳴、さらには行動の制御までをも含むものとされている。つまり、コミュニケーションがうまくいく、あるいはコミュニケーションが成立するためには、送り手の情報が受け手へ正確に伝達され、その上で送り手のメッセージ(意図)が受け手に理解されるということが条件となる。

一方、送り手から伝達された言語情報だけではメッセージの理解が困難な場合には、非言語情報やコンテキストなどをもとに、受け手が送り手のメッセージを推定することになる。一般的に、人が持つ運動機能と感覚機能を最大限に利活用したとしても、メッセージを正確に伝えることは容易なことではない。つまり、コミュニケーションとは送り手と受け手の相互理解の上に成り立つ行動であり、相手が何を感じ、何を伝えようとしているのかを推察することから始まるのである。

社会生活においてコミュニケーションの占める割合は高い。しかしながら、前述したようにコミュニケーションを成立させるためには言語情報のみならず、非言語情報やコンテキストなど多種多様な広義の情報が必要不可欠となる。

3 コミュニケーションの成立に必要なこと

言語・表情・身振りなどによらず心の内容を伝達できる能力(テレパシー)は存在しない。そのため、コミュニケーションには共通の「媒体」を介して行われる。その媒体として一般的なのが言語であり、たとえばテレビのニュースでは音声言語や文字言語、さらには手話という媒体を介してメッセージを伝達する。

国内の各種メディアは日本語という共通の言語を媒体とすることで、広く国民にメッセージを伝達している。しかし、日本語であってもメッセージが正しく伝えられるとは限らない。たとえば「ある野球選手がアメリカでマイナー契約した」というニュースを聞いただけで理解できる人もいれば、「マイナー契約」の意味を知らないために推察しなければならない人もいる。後者の場合、百科事典やインターネットなどを検索し、単語の意味を知る行為を通してメッセージが理解できる。

さらに、教育や文化的背景に違いがあればメッセージは正しく伝達されない。筆者が米国滞在中の冬、現地の小学校へ通う息子に「トナカイの名前を書いてくること」という宿題が出た。筆者自身にも答えが思い浮かばないし、もちろん辞書にもない。翌日、担任教師に宿題の意図が理解できない旨を伝えると、笑いながら「Rudolph(ルドルフ)」と答えてくれた。赤鼻のトナカイを思い出して苦笑した記憶がある。教育や文化的背景をも相互に理解できなければコミュニケーションは成立しない。

4 情報保障を考える上で必要な情報の等価性

コミュニケーションの実行には言語という共通の媒体が必要である。しかし、一方では疾病や障害により音声や文字をそのままでは受け取れない人たちも多い。私自身、眼鏡を外さなければ小さな文字は読めない。眼鏡を外す、あるいは老眼鏡を掛けるという代替手段で解決する場合もあるが、代替手段がない、あるいは代替手段だけでは不十分な場合も多い。

視覚に障害のある場合の代替手段を方法により分類してみる。視覚機能を利用する場合(ロービジョンなど)、眼鏡などで矯正したり、ルーペや拡大読書器などの福祉用具を利用したりすることが多い。一方、触覚や聴覚機能を利用する場合(全盲)、点字を利用する一方で、情報技術(音声読み上げ)を活用した福祉用具を利用することが多い。これらの代替手段は、晴眼者が墨字を読む行為と等価だとは考えにくい。矯正による代替手段は見え方にもよるがほぼ等価と考えても良い。しかし、ルーペや拡大読書器などで拡大した場合、全体を見渡すことができないため現在位置を見失うことも多い。

点字の場合、漢字情報が欠落してしまうことで意味の把握に困難が生じ、紙媒体の点字では物理的な大きさのために保存や可搬性で不利益が生じる。また、音声読み上げ情報は文字や点字とは異なり、聞き手(読み手)の理解に応じて読み進めることができず、また音声はすぐに消えてしまう情報であることから、熟読には向かない。

聴覚に障害のある場合も同様に、代替手段を方法により分類してみる。聴覚機能を利用する場合(難聴)、補聴器や人工内耳などの福祉用具を利用することが多い。一方、視覚機能を利用する場合、手話通訳、あるいは要約筆記や字幕などを用いる。これらの代替手段も同様に、健聴者の聞く行為と等価だとは考えにくい。補聴器などによる代替手段は聞こえ方にもよるがほぼ等価と考えても良い。しかし、周囲の雑音による影響が大きく、聞きたい音源に集中できないという課題もある。

手話は通訳者の確保が困難であり、視覚障害における音声読み上げと同様、すぐに消えてしまう情報である。そのためメモをとりたいところであるが、視線をメモ帳に移せば手話は読み取れない。また、聴覚障害学生の授業支援としてのノートテイクでは、黒板やスライドを見ながらテイカーのノートも見なければならない。ノートに気を取られると板書やスライドが確認できないというジレンマに陥る。

このように、情報保障としての代替手段とは単なる情報メディアの変換にとどまらず、情報の等価性をも視野に入れて考えていく必要がある。「一を聞いて十を知る」のは個人の能力に基づくものであるが、「0.1しか聞こえない」状態から「1.0が聞こえる」状態に近づけることは社会的な責務である。この不平等を改善するための努力こそが情報アクセスやコミュニケーション保障に通じると意識し、障害者権利条約の批准に向けた今後の対策につなげていきたい。

(いとうえいいち 長野大学、JD情報通信委員会委員)