音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年6月号

1000字提言

「扉」

夫彰子

3月までいた前任地の福岡には、地域のニュースを載せる面で、「記者有情」という小さなコラム欄があった。当時所属していた西部報道部の記者が、持ち回りで担当した。

2月初め、「両手を上に」との見出しで記事を出した。手前味噌ではと恥じ入りつつ、引用する。

「電車の中では両手を上に」。母親は息子が幼いころから何度も言い聞かせたそうだ。理由は「この子が痴漢に間違われないように」と。そして「揺れて偶然女性に触れても、痴漢は誤解だと自分で説明できないから」とも。息子は自閉症。人との意思疎通が困難な障害だ。

この話は、彼の母方の祖母から聞いた。我が子を思い、繰り返し教える母。母の意図をなかなか理解できない息子。そんな娘と孫を見守るしかない祖母。3人の姿を想像すると、それぞれがそれぞれに切ない。

息子は成人し、今は電車に乗ると自ら両手を上げるという。それが余計に切ない。皆が自閉症の彼を思いやれる世の中なら、母の不安も、彼が手を上げ続けることもなかったろうに。

祖母は、昔を懐かしむような優しい口調だった。「苦労もしたけど、今では良い思い出ね」という風に。一方の私は、聞きながら何だか胸が詰まった。

自閉症とは、脳性マヒとは、統合失調症とは……。それら一つ一つを社会のすべてが「正しく詳しく」知るべきだと、私自身は思っていない。そもそも不可能だし、「正しく詳しく」知らない事柄は逆に軽視することにもつながる。

詳細な知識よりも、「この人は何かの理由で困っているのかもしれない」とたった一つ「考えてみる」ことこそが、思いやる心の扉だろうと思う。扉は、障害のない者がある者に向けて開くだけではなく、ある者からない者へ、ない者同士、ある者同士、至る所で開かれていてほしい。それが日々、記事を書く時に込める願いだ。

自閉症の青年が両手を上げて電車に乗る光景を想像して胸が詰まるのは、彼だけが扉を開けさせられているように感じるからだ。「自閉症ではない人たちに迷惑をかけ、誤解を受けてはならない」と。それは思いやりというより、遠慮や自己防衛かもしれない。彼一人にさえ扉を開けられないのが今の社会だとしたら、閉め切った扉の内側は余りにも傲慢で、狭量で、息苦しい世界だろう。

(ぷちゃんじゃ 毎日新聞記者)