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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年6月号

文学にみる障害者像

『翼をはって』の生涯

阿部貞子

小柴資子(こしばもとこ)さんのお名前を知ったのは、『米食い虫、非国民と罵られながら』(全国肢体障害者団体連絡協議会発行・2004年)に編集された「戦争っ子として生き抜いた私の記録~小柴資子」を読んだ時でした。これは1931(昭和6)年生まれの小柴さんが重度CPとしての戦争体験を綴った自分史です。戦時中の勤労動員令により、女学校の入学試験が学力よりも体力に重点が置かれていたため、障害があるが故に進学が叶わなかった小柴さん。今年80歳ですが「米食い虫、非国民と罵られた」時代、障害女性が故の更なる苦難の人生を歩んできた体験文です。今回『翼をはって』を読む機会に恵まれた私は、小柴さんの足跡を知りました。自らの人生を決して諦めることなく果敢に挑み続けた一人の障害のある女性の生き様が優れた洞察力と力のある文章力で書かれています。

1974(昭和49)年に発行された『翼をはって』(日本放送出版協会)では、ご自身の誕生から成長の過程、戦争体験を含めた40歳余までの“闘い”と言っても過言ではない壮絶な生き様がご自身の心の内面とともに書かれています。特に戦後、20歳を過ぎてからの手術や治療、進学などの挑戦は、重い障害を持ちながらも見事なまでに強く逞(たくま)しく真摯に生き抜いてきた姿が伝わってきます。そして、出版の前年1973(昭和48)年、24日間のヨーロッパ視察で訪れた欧州の福祉施策を見て廻り、施設での障害者を「人間」として尊重する国家と国民の意識を感じ取り、それらを日本の福祉状況と比較し、障害者を「人間」として見ていない・認めていない当時の日本の現実を訴えます。折しも日本の1970年代は「青い芝の会」が代表する障害者運動を始め、障害者自身が初めて社会に向け自らの存在と意思を明確な形で主張し行動を起こし始めた時期でした。

歩く足どりは酒に酔った人のようなちどり足。ひきしまりのない口もとからは、たえずよだれが流れており、語る言葉はろれつがまわらず、いかにみても馬鹿か白痴にしか見えない女。これが、私なのである。脳性マヒ、この4つの文字が、私のすべてを束縛しているのだ。

重度CPの小柴さんは、小学校4年生の時に乳母車につかまってならば歩けるようになったようです。しかし、たとえ“ちどり足”であろうと独歩できるようになった背景には厳しい訓練がありました。

整肢療護園で最初の治療を受ける動機となったのは、何とかして健常な体となって初恋の彼の奥さんになりたいという必死の思いでした。治療すれば脳性マヒが全治するものと思っていた小柴さんですが、それは叶いませんでした。初恋の彼は見合い結婚してしまい、小柴さんは自殺未遂を図ります。そんな辛い経験から自分を見つめ直し、もう一度自分の人生に向き合うことを決めた小柴さんは何より自活しなければならないと考え、職業を身につけようと身体障害者公共職業訓練所に入り編み物技術を習得します。しかし一足のソックスを編み上げるまでに70時間もかかり、努力しようにもそれは断念せざるを得なかったのです。

ならば資格を取ろうと、都立の社会事業学校への入学を計画しますが、受験資格が高校卒業者という壁が小学校しか出ていない小柴さんの前に立ちはだかります。ここでも、諦めるような考えを持ち合わせない小柴さんの逞しさ、不屈の精神が学校に受験することを認めさせます。まさに学歴詐称するのでなく、正々堂々と受験し合格してしまいます。そして聴講生となるのですが、無遅刻無欠席で通学し、異例の措置で正規の生徒として卒業証書と社会福祉主事任用資格を授与されます。

1947(昭和22)年学校教育法(義務教育9年間)公布に比べ、障害者本人はもとより、親の意思が尊重されない就学猶予、就学免除が当たり前だったこの時代。各種学校である社会事業学校と義務教育は比較に値しませんが、障害者の教育に対して社会の理解が整う以前に、国や行政を頼りにせず、ご自身で教育資格取得の道を開拓されていった小柴さんのしたたかで堅固な精神がうかがわれます。ちなみに障害児の養護学校教育が義務化されたのは1979(昭和54)年のことです。

しかし、社会福祉主事任用資格を得たものの就職先は見つからずに、仕方なく生命保険の外交までしていた時期もありました。言語障害を持ちながら保険勧誘の仕事をしたことに対して、驚きを禁じえません。ある家庭を訪問した際に物乞いと間違われて10円玉を差し出されたこともあったとか。

また、競争率1300倍の国家公務員試験にも挑戦しています。学歴・年齢制限により受験資格は上級職の心理部門だけでしたが、障害者であればなおのこと公務員になるより他に道がないと考えたのです。小柴さんの就職活動後の1960(昭和35)年に身体障害者雇用促進法が公布されますが事業者の雇用義務も努力義務に過ぎず、非強制で実効性を期待できるものではありませんでした。また小柴さんは当時、身障者運動を盛り立てていくために、地域の身障児の親たちに呼びかけて「父母の会」を結成させ、マスコミに取り上げられたりもしています。

日本社会事業大学研究科に聴講生として1年間通学した後、日本肢体不自由児協会にケースワーカーとして就職します。ここで言語障害を伴うCPの場合、その意思は親にも通じることが困難であることを思い知らされ、ケースワーカーとして、また同病者として子どもたちの気持ちを真に理解しようと努めます。

小柴さんの長年の夢だった仕事を得てこれで穏やかな生活が続くと思われましたが、体に不調が表れ「前斜角筋症候群」と診断されて、14、5回目の手術を受けます。全身に33か所の手術痕があるということですが、入院の回数もそれなりであったでしょう。「肢体不自由児の父」と言われた整肢療護園開園者の高木憲次博士がお亡くなりになった日も全身状態の悪化により入院しています。小柴さんにとって高木博士は特別の人でした。なぜなら、戦後まもなく厚生省による身体障害者のための全国巡回相談で疎開先の富山県にいた小柴さんを診察し、入院治療を奨められたのは高木博士でした。

度重なる入院の中で思わぬ仕事の依頼が小柴さんに舞い込みます。メディカル・ケースワーカーという仕事です。まさに自身も入院中で通勤する仕事ができない状況下での、1日1日が実践であり勉強でもありました。癌告知が一般的でなかった時代、自分は癌なのではないかと不穏になり泣き騒ぐ癌患者に、またわがまま放題のCPに対し、小柴さんの的確な助言によって心身の改善がみられています。そして「無給医局員」なるドクターへの社会保障の不備や、看護婦不足に対しての処遇改善をこの時に指摘しています。

小柴さん自身、職場での欲求不満や人間関係のわずらわしさを考えると陰うつでならず、それを克服するためにか、小柴さんが次に選んだのは夜間中学の入学でした。

社会福祉の分野を学び、相当に心の痛みを持った人々を知ってきたつもりでいた私であったが、そこに籍を置く人々の群を知った時、そのショックもまた大きかった。

そこは家庭の事情で学校に行けなかった14歳の自分の名前も書けない文盲の少女をはじめ、植木屋のおじさん、小料理屋のママなどさまざまな人たちが集います。最高年齢58歳。一定の学齢を過ぎた過年者は、たとえ義務教育であろうと一般の小中学校に入学が許されず、そうした人たちのために創設された学校でした。ところが当時の文部省は、20年の歴史があるのにかかわらず公的には認めておらず、世間にも知られていなかったのです。小柴さんは本の中で、もし公的に認められ一般に普及されていたならばもっと早く若いうちに入学し、長い間「学歴」で悩み苦しまなくてよかったのにと悔やまれています。そして、

日本人の就学率が98%といえば聞こえのいい「文化先進国」であろうが、残りの2%はどうなってもいいのだろうか?98%には「長期欠席児童」も含まれている。

続けて小柴さんは語ります。

人間として生を享けた以上は平坦な道を歩む者は一人も存在しないと思うが、変化に富んだ人生にこそすばらしい味があるのではなかろうか。私は生きて来た事を「無」とはしたくないのである。

戦争っ子として戦中、戦後を生き抜き、幾多の手術と治療を克服し、刻苦勉励して仕事と福祉に貢献された小柴さんの矜持を保つ姿に、尊敬の念に駆られます。小柴さんの処女作『その歩みはおそくとも』もぜひ読んでみたい本ですが、戦後の日本の障害者が体験してきたことを風化させないためにも、『翼をはって』をはじめとした貴重な本が長く保管されることを願います。

(あべさだこ 特別養護老人ホーム「癒しの里南千住」職員)


【参考文献】

・杉本章『障害者はどう生きてきたか』現代書館、2008年