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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

今、身定協の設立と障害者団体に果たしてきた役割を振り返る

障害者団体定期刊行物協会

障害者団体の会報の取り扱いを福祉制度の原点に

佐藤三郎

障害者団体の発行する会報が、低額の料金で送ることができるようになって41年余の歳月が経った。その郵便制度の発足当時のことを知る人も少なくなってしまっているが、幸いそのスタート時に中心的に動いた今は亡き二日市安氏(ふつかいちやすし)(前障定協理事長)の書斎には、その当時の交渉記録が遺されている。多くは、重度障害の本人に代わって、伴侶である推理作家仁木悦子氏の手による貴重なものであった。

翻って、この活動を始めた背景を探ると、そこには障害者団体が抱える窮状があった。1966年(昭和41年)の郵便料金の大幅な値上げや適用制限のために経済的な負担に耐えられなくなった14の障害者団体が結束して、当時の厚生省・郵政省と交渉に当たったのだった。二日市氏は当時の国立身体障害者更生指導所修了生の同窓会報「更友会報」を発行する立場からの参加だった。

そして、この活動の支援にあたったのが参議院議員の木村禧八郎氏で、再度の国会質問による政府追及により、ようやく厚生・郵政の両省側との協議の場が持たれるようになり、その結果、1971年(昭和46年)5月19日に「身体障害者団体の機関紙の特別措置」として最終合意がなされたのだった。これは官民協力によるひとつの福祉制度実現の大きな成果というべきものだった。

前述の交渉記録には、合意に達するまでの厚生・郵政両省の担当者とのやり取りが細々と記されており、発行部数や発行回数などの要件で、弱小の障害者団体がこの福祉制度の適用を受けられなくなるような事態を何とか避けようとする熱意ある意見交換も読みとることができる。ただ、現在問題になっている80%の有償購読率の要件については、単に「定価を付すること」とあるだけで、その根拠について一切触れられることはなかった。

今になってみると、ここに現在、私たちの前に立ちはだかっている問題の根源があるように思う。

この郵便制度は、1976年(昭和51年)に通常の郵便物とは別個の低料第三種郵便物として扱われるようになるとともに、利用する障害者団体も増え、発足当初、肢体障害者の団体がほとんどであったが、聴覚・視覚障害者はもとより、知的・精神障害者の団体も加わり、現在は時代の要請に応えて内臓障害や難病患者・薬物依存者の団体も一員となっている。とかく孤立しがちなこれら多種多様な多くの障害者にとって、この郵便制度は情報発信、社会参加への有力な手段としてこれまで利用されてきた。

当初「身体障害者団体定期刊行物協会」(略称・身定協、通称表記・SSK)とした名称も、この時代の流れに沿って「身体」の2文字を削除している。現在8系列430余の団体が加盟するようになり、関東を地盤とする当協会のほかにも全国各地に同趣旨の協会が次々と発足して、現在知られているだけでも23の協会を数えるに至っている。

このように、この郵便制度は国家・社会によって認められた福祉制度として大きな役割を果たし、順調な歩みを続けてきたかに見えたが、突然降りかかってきたのが、2008年(平成20年)秋の悪徳一部業者による制度の不正利用だった。そして、これをきっかけに私たちに突きつけられたのが民営化された郵便事業会社による、あの目に見えないところにあった80%有償購読率維持の要求と、それを確認するための全障害者団体の調査だった。

障害者団体としては、これは会報の廃刊・休刊につながりかねない死活の問題であり、全国の協会との連合会を結成するとともに、日本障害フォーラム(JDF)とも共同して、総務省、厚労省、郵便事業会社と協議の場をもち、総務大臣にも要望書を提出し、問題の根源にある第三種郵便物からの脱皮を訴えてきた。この7月19日には8回目となる協議を行うことになっているが、残念ながら容易に展望が開ける状況にはない。

郵便事業会社は会計検査院の意見表示があって不正防止のため全団体調査をせざるを得ないとするし、総務省は現行制度を変えるには法改正が大変で、しかも障害者の福祉政策は管轄を越えていると言い出すし、厚労省は偽証明書の発覚があって以来、証明書の発行のみならず福祉政策を支援推進する立場を放棄してしまっているような始末である。

ここに至って私たちは声を大にして言いたい。障害者団体の発行する会報の類(たぐい)は、購読を前提とするような商業紙とは全く性格が異なるもので、41年前の郵便制度発足当時の原点に返って、福祉制度の大切な柱であることを認識して、それを速やかに実行してほしいと。(2012年7月14日記)

(さとうさぶろう 障定協事務局長)


仄(ほの)かな夢を追いつつ―ある闘争記

金澤恂

その発端

実は、私がこれを書かせて戴(いただ)く以上は事実をその有りの儘(まま)の姿で書いて置きたかったのです。

何となれば、この問題に限られた事柄であったからこその議題がひょいと顔を覗(のぞ)かしていたのかも知れない。それにしても、民営化された郵便会社のお偉い人達の今から41年ほど遡(さかのぼ)る昭和46(1971)年に、郵政省と言う一つのお役所と私たち障害者連合会とが友好の基に「障害者団体として発行する郵便料金」に寄せての特別扱い制度新設をという話が双方合意の基、「低料第3種郵便物」なる枠を作り、落着し、同年3月には正式なる「許可」までも下りたにも拘(かか)わらず、その後民営化された郵便会社の経営者と名乗る一部の人たちが「彼の折のものは、第3種郵便としては相対的に、また法律的にもこれこれと大きく違反している」等々と。何一つ知らない私共障害者仲間を大方、役人根性出っぱなしと言った脅しに掛かってしまうとか。こうした変調が起こり得ること自体が私に言わせるなら既に可笑(おか)しい。大きな、大きな間違いでもあると思ったり、また、していた。

実る、郵政当局との話し合い

当時、この問題を「第3種郵便」で収拾する事と要望かつ決定したのは、国であり、かつ当時の郵政省側の方であった事は確かに事実で、その春先に行われました数回に亘る郵政省のお役人達と私共障害者団体代表、一口に代表々々と記すものの、その私共と言う者の相棒は何時も心おだやかなMという私より2つか、3つ年下の世界を潜り抜けている「更友会」という一つの身障者団体を二日市安氏と共に育成させていた男でした。生業は洋服製造業でした。

この事に関して、同じ年の3月2日第65回参議院予算委員会に於いて自ら進んで立って下さり、私達の苦境をご自分自身の事でもあるかの様に切々と訴えかけられた日本社会党の参議院議員でありました木村禧八郎さんの要請に答えて佐藤栄作総理大臣をはじめ、内田常雄厚生大臣、井出一太郎郵政大臣等もこぞって耳を傾けて居られました。ここで何かが生まれるのではなかろうかと。そうした大きな期待感に打ち震えもした私でありました。それ等に反し、とんでもない事を仕出かして呉れた奴等だと食って掛かって来ているといわれているとか。そう言う人等は、勿論の事、当時の郵政省の人達も十分の上での話し合いでありました。その上に現在の郵便会社の人らは挙(こぞ)って、最初から「第3種扱いで」と私達が頼み込んでいたそれが恰(あたか)も真実と捉える事が正しいとでも悪意ある錯覚読みをしているらしいのです。

私は今も大切に持っております。「第4種を」というビラを手に活動を開始したという記事を(1971年3月3日付け毎日新聞紙上)。

(かなざわじゅん 障定協相談役)