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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

患者運動と療養文芸

荒井裕樹

病気や障害を有するために、社会の中で何らかの生きにくさを感じている人たちが、その軽減や解消を求めて自らの権利を主張し行動すること。仮に「患者運動」や「障害者運動」をこのように定義するとすれば、それは敗戦後の療養所という空間から始まったと言えるだろう。

敗戦後、結核療養所やハンセン病療養所では、劣悪な療養環境を強いられてきた患者たちが団結し、生活の改善要求と横暴な職員への糾弾を始めた。特に結核患者たちの活躍は目覚ましく、傷痍軍人との間に生活擁護を目的とした大同団結を結び、1949年には「日本患者同盟」(略称「日患同盟」)を結成するに至る。朝日茂が提訴した「朝日訴訟」(1957年)は、「日本国憲法」が規定する「生存権」の内実を問う重要な問題提起であり、同様の運動を起していた他病種・他障害の人々にも大きな影響を与えた。

結核患者たちが闘争の声を上げたのと同じ時期、厳しい差別と偏見の目が向けられていたハンセン病療養所でも運動の機運が高まっていた。1948~49年には治療薬「プロミン獲得運動」が起こり、1952年には「全国ハンセン氏病患者協議会」(略称「全患協」)が結成された。その翌年には、戦後最大の患者運動の一つである「らい予防法闘争」が展開されている。

結核患者・傷痍軍人・ハンセン病患者の三者こそ、患者運動草創期の代表的な牽引者であった。戦前~戦中期には数々の恩典を得ていた傷痍軍人は別として、全くの無権利状態であった結核患者やハンセン病患者らが闘争を展開できた要因としては、大きく二つの点が考えられる。一つは、治療薬や治療技術の向上により、それまで「不治の病」という暗いイメージが付きまとっていたこれらの病気の治癒率が劇的に向上したこと。もう一つは、GHQが進めた民主化政策の影響、特に「基本的人権」の理念を盛り込んだ日本国憲法が公布されたことである。新憲法が当時の運動家たちに与えた影響力は計り知れない。たとえば「らい予防法闘争」に関わった島田等は「新憲法は百万の味方であった」とまで述べている(『病棄て―思想としての隔離』ゆみる出版、1985年、44頁)。

結核にせよハンセン病にせよ、患者運動が療養所という空間から始まったことは決して偶然ではない。闘争には物理的な人員と、その間を固く結ぶ連帯感が不可欠である。同じ病気を抱えるがゆえに互いの心情を理解し、生活を共にするがゆえに利害関係を等しくする人々が集う療養所は、その連帯感を育む枠組みとして機能した。また「国立」の療養所では、闘うべき敵(国家・旧権威・官僚制など)が見えやすかったという点も挙げられるだろう。

これらの患者運動が一つの契機となって、自らの生存権を獲得しようという運動が連鎖的に派生していくことになる。特に本稿で注目したいのは、先の患者たちのようには連帯の場を持たず個々に散在していた障害者たちが、自らの生きる権利を求めて結束する場を作り出し、熱い運動を展開していったという流れがあるという点である。

その一つの事例が、「日本身体障害者友愛会」である。同会は1954年6月、岡山県矢掛町の有安茂(ありやすしげる)(肢体不自由)ただ一人によって結成された。有安は病床で伏したまま機関誌『友愛通信』(1954年10月創刊)のガリを切り、多くの障害者たちに手紙を書き、その溢れる情熱と卓越した文章力によって急速に会員を増やしていった。同会は郵送による「在宅投票制度」の復活を求めた大規模な国会請願・署名活動(1967年)などを展開したほか、「全国障害者問題研究会」(1967年結成、略称「全障研」)の人脈的源流の一つになったという点でも、極めて功績の大きい会である(参考資料=全国肢体障害者団体連絡協議会編『障害者運動のさきがけ―有安茂と友愛会の歩み』2012年)。

もう一つは、東京都麻布を拠点とした文芸同人団体「しののめ」である。同会は日本初の公立肢体不自由児学校「光明学校」の卒業生である花田春兆らによって、1947年に結成された。当初は、同じ境遇の仲間たちが日頃の苦労を分かち合うことを目的とした純粋な文芸同人団体であったが、活動を重ねるうちに、次第に自分たちを苦しめている社会構造的な問題に気付き、政治的な関心が高まっていく。この関心の高まりから、やがて同会を母体として「日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」」が誕生し(1957年)、後に横田弘や2日市安をはじめとした運動家たちが巣立っていった。また「しののめ」が中心となって「身体障害者団体定期刊行物協会」が設立され(1971年、略称「SSK」)、障害者運動の生命線とも言うべき「機関誌文化」を死守したことなども特筆すべき事柄であろう。

有安や花田らが置かれていた状況は、先の結核やハンセン病患者たちの置かれていた状況とは大きく異なる。つまり、彼らのような重度障害者たちは在宅生活を余儀なくされ、個々に散在し、連帯する仲間はおろか、辛い境遇を語り合える友人さえ持たない場合が多かったのである。

実は、前述の患者運動を担った人々のなかには、熱心に文学活動に携わっていた人々が少なくない。結核療養所でもハンセン病療養所でも、患者たちの手による文芸同人雑誌が多数発行されており、それらの文学活動は「療養文芸」という形で文壇の一角を形成するまでに至る。そして有安や花田らも、新聞やラジオを通じて「療養文芸」の存在に触れ、多くの刺激を受けていた。在宅障害者たちが、朝日訴訟のような政治闘争だけではなく、病苦を綴った叙情的な表現からも影響を受けていたというのは極めて興味深い。

考えてみれば、人権や生存権の獲得を訴える運動を展開するためには、そもそも「闘って守るに値する自分」といった根源的な自己肯定感がなければならない。たとえ「基本的人権」を尊重した民主的な新憲法が公布されたとしても、その権利を行使するためには「権利を主張してもよい自分」という自尊心が必要である。

戦中期には、働けず戦えないことから「非国民」「穀つぶし」と蔑(さげす)まれ、強い自己否定感に苛まれていた病者や障害者たちは、自前の文芸誌などに日々の苦労を率直に綴り合うなかから自己肯定感を模索し、自分が味わう苦労が不当なものであり、社会に対して訴えてもよいことを学んでいった。その意味では患者運動の底流には、文学を通じた自己表現活動が力強く脈打っていたといっても過言ではない。

ただし、患者運動という政治的闘争と、療養文芸という文学活動では、訴える〈苦〉の内実が多少異なるようである。すでに幾度も指摘していることであるが、人間が訴える〈苦〉には、〈苦しみ〉と〈苦しいこと〉という二つの位相が存在する。たとえば〈苦しみを分かってほしい〉という場合、人はその原因や内実をある程度把握しており、それを誰かに伝えたいという表現への欲求に重点が置かれていることが多いようである。対して〈苦しいことを分かってほしい〉という場合、本人にも自分がどうして苦しいのか説明することはできないが、とにかく苦しんでいる自分を受け止めてもらいたいという関係性への欲求に重点が置かれていることが多いように思われる。

おそらく〈苦しみを分かってほしい〉というのが患者運動などの社会運動の位相に、〈苦しいことを分かってほしい〉というのが療養文芸などの文学(芸術)の位相に該当するのであろう。前者では、「自分はなぜ苦しいのか」という問いに対する証明責任を自分たちが負っており、どのような手助けを求めているのかが明示され、問題を解決するための要求・告発へと進展していく。対して後者では、必ずしも問題の解決自体が求められているわけではなく、むしろ他者との関係性を築き上げることが求められている。

患者運動と療養文芸を担った人々の精神構造を図式化すれば、〈苦しいことを分かってほしい〉という文学の位相を深層的基盤としつつ、その上に〈苦しみを分かってほしい〉という運動の論理が積み上げられてきたのではないか。自分が苦しいのは病気や障害のせいだと信じ、誰にも相談できない状況で苦しんでいた病者や障害者たちは、文学という叙情表現を紐帯(ちゅうたい)に心理的な連帯感を育んでいった。そのような営みの中から、病気や障害をもつ自分たちに不利益を強いる社会の構造を見出し、それを変革する必要性に駆られて立ちあがっていった――。

患者運動や障害者運動の発生点をこのように捉えれば、両者が文学活動から始まり、文学活動を土台として発展していったという歴史的経緯が理解しやすいのである。

(あらいゆうき 日本学術振興会特別研究員)


【参考文献】

・荒井裕樹『障害と文学』現代書館、2011年

・荒井裕樹『隔離の文学』書肆アルス、2011年