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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

ある障害者運動団体の軌跡
「青い芝」ではなく第三の道を目指した「千草の舎を守る会」

佐々木卓司

戦後の障害者運動と言えば横塚晃一氏や横田弘氏による行政に訴えていく「青い芝の会」の活動が有名だが、彼らの行動が新聞を賑わす後ろで、さまざまな障害者団体が発足し、それぞれが独自の活動を展開していった。何より戦後すぐに始まった文芸同人誌「しののめ」などは青い芝の会のメンバーも加わっていたのだから、これこそまさに障害者運動の先駆者だろう。

また「百万人の広場」という団体は、心臓疾患者の丸山信也氏が障害者同士の結婚を明確な目的として始め、合同合宿キャンプや旅行などを開催、多くのカップルが誕生した。丸山氏は結婚に向けての2人の住まいから、当然発生する親戚間の問題までをも自身が引き受けて奔走していた。そんな戦後の障害者運動の中で、これから私が書こうとしているのは「千草(ちぐさ)の舎(しゃ)を守る会」という団体の軌跡だ。

当時まだ大学生だった私は、障害者の親睦団体にも、また青い芝のような運動にも自分の居場所が見つけられなかった。そんな私に障害者施設で一緒に暮らした仲間が、ある運動への参加を誘ってきた。それは重度障害者のための施設建設運動だった。作家の水上勉氏が日本の福祉行政の貧困さを告発し、障害者施設の必要性を訴えたのが60年代なら、70年代は障害者を中心に隔離収容する障害者施設の建設反対運動が勃発した時代だ。その時代に施設建設を叫ぼうと言うのだ。

「健全者社会や、親兄弟の生活を脅かさないために作られるような大規模障害者収容施設は反対だ。しかし一方、重度障害者は家庭に閉じ込められ、親の言いなりに人生を送らされている。彼らの生活と自由を保障できるような家を造る必要があるのではないか。それを健全者ではなく、障害者自らが企画し、作り上げていく運動だ」。このメッセージは強烈だった。この運動体が「千草の舎を守る会」。しかしそこに入るには条件がある。それは「家を出て働きながら活動をする」ということだった。「親元にいながらの運動なんて欺瞞(ぎまん)だ。障害者自身が、差別社会でたたかれながら稼いで、その中で活動していくのでなければ意味が無い」。そういう彼らの言葉に返す言葉はなかった。

「千草の舎」とは、新潟に建設予定の重度障害者施設の名称だ。もともとこの運動は、施設の責任者であるHさん(女性で当時50代)が新潟に重度障害者の家を造りたいという希望に、当時24歳だったY氏という健全者が応えて、『障害者自身が施設建設をしていく』という運動を起こしたのだ。Y氏のメッセージは「自分は健全者だから、アイデアは出しますが、実行は障害者の皆さんでやりませんか」というものだった。

会の活動は街頭募金をはじめとする建設資金の調達から始まった。そして設計協力者探し、建設依頼、建設と進み、運動を始めてから5年目で施設が完成した。その建物は新潟大学に隣接した住宅街に建てられ、食事をする大広間を中心に5つの部屋があり、それらはすべて個室で、まるで賄い付きのアパートといった感じだった。そこに生活のすべてに介助が必要な重度の障害者5人と介助の職員5人が入居してスタートした。

施設建設に区切りがついたこの時から「千草の舎を守る会」の活動目的は、千草の舎の経済的支援とともに、自分たちの周りの障害者の社会参加を進めて行くことを会の方針とした。会員はカリエス、CP、骨形成不全、ポリオなどの障害者9人、Y氏をはじめとする健全者5人の14人。各自のアパートは、何か事故や緊急事態が起こっても、タクシーで15分あれば駆けつけられる場所にしようと決め、足立区、荒川区周辺とした。

会での生活は、まず朝食会から始まる。今週はA氏、来週はB氏という具合に決めて、その仲間の家に朝6時30分に全員が集合し、この家を皆で掃除をし、ご飯を炊き、そこで全員朝食を済ませ、各自自分の職場へと向かう。仕事が終わると区の体育館に集まり卓球による体力作りだ。また、毎週水曜日の夜には事務局になっている人の家に集まり、定例会を行う。

実は、我々が一番辛かったのはこの毎週の定例会だった。前回の定例会で話されたことを報告書にまとめて提出しなければならない。それを元に、Y氏は各自の発言の矛盾点を指摘、批判し、その反省を促すのだ。いいかげんな発言をしようものならとことん追求される。まるで針の筵(むしろ)に座らされているような時間になるのだ。定例会での議題は重度障害者とともに行う春夏秋冬の旅行の企画、正月に一人暮らしの人を招いての合宿。各障害者団体を一同に集めての卓球大会。さらに会員一人ひとりの生活目標の設定。これらのすべてを定例会の場で皆で話し合い、問題点を指摘しあうのだ。会が行う年間行事の反省で、一番Y氏が厳しく見ていたのは、協力してくれた方へのお礼や挨拶など、大人としての行動であり社会的人間としての責任だった。

一方でこんなこともあった。定例会のある日、縫製工場に勤める私は仕事でミスをしてしまい、60本のベルトを縫い直ししなければならなかった。仕方なくそのベルトをアパートの部屋に持ち帰ると、皆が待っていて、間違えて縫ったベルトの糸ほどきを全員でやってくれた。

また、Y氏が皆に提案して全員で行ったユニークな事例がある。それは、会員のK氏が、鬱(うつ)が元で無断欠勤を続けるうちに自分から会社に行くことが怖くなり、ついに工場から解雇を迫られてしまった時のことだ。まず朝、K氏を呼び出し、会の仲間全員で彼を工場に連れて行き、夕方、仕事が終わるまで工場の近くで彼を待つのだ。そして終業ベルが鳴って工場の外に出てきた彼を「よくやった」と皆で褒(ほ)め称(たた)えたのだ。そしてK氏に工場に詫(わ)びを入れることを指示、翌日、工場の主任に無断欠勤を詫びた彼は、また以前のように工場に通うことができるようになった。

我々が守る会を通じて行う障害者運動の形は、健全者社会を声高に糾弾したり、要求するのではなく、まして迎合するのでもなく、自分たちのやり方を確実に進めていくことだった。週の真ん中で休みを取ったり、残業をしないようにしたりと障害者らしく働くこと、生活することを考え出し、それを実践した。もし、これらの行動で、会社や地域と問題になった時は、常に相手の立場に立って考え、話し合い、互いの最良の解決方法を探っていくようにした。その際、決して集団ではなく、個人個人がそれぞれに一人で相手と会い、解決していくこととした。

また、守る会の会員が何より厳しく守った約束は、お酒を絶対に飲まないことだった、旅行先でも、普段の生活でも、もちろん正月でも、お酒は一切飲まないというのを会の決まりにし、辛いことは皆で話し合い、酒に逃げたりしないこととしたのだ。

これらすべての行動計画がY氏の提案に因(よ)るものだ。Y氏は毎日夜になると各自のアパートを訪ねて回り、悩みを聞き、その人に沿った生活目標を作っていくのだ。今振り返って見ると、守る会自体が、地域に開放されたケアスタッフ付きの障害者施設そのものだった。

守る会は去るのも自由、入るのも自由というのがルールだから、退会していった人も多い。発足10年という節目の1980年2月、守る会を開かれた組織とすることに方針が変わり、朝食会や定例会をなくし、会の名前も「ちぐさ会」として機関紙を作り一般会員を募った。そこに参加した学生たちとともに、伊豆の弓ヶ浜海岸にステージを作ってフォークシンガーの「なぎら健一」氏によるコンサートを開催し、千草の舎の入居者や多くの障害者を招くなど、会の活動は大きく変わっていった。一方Y氏は「朝文社」という障害者のための会社を設立する。初めは印刷主体であったが、その後、出版社へと変化していった。私はその会社で仕事と経済の仕組みのすべてを教わった。だがY氏は48歳で癌に侵されて亡くなった。生涯を障害者と共に歩んだ人生だった。

62歳になった今、私は守る会でY氏が私たちに伝えたかったものがやっと見えてきたように思う。障害者が集団で自分たちの要求を訴えるだけの運動では、健常者からすれば、赤子が駄々をこねているように見られるだけだ。駄々をこねる赤子の要求に仕方なく応じるような社会ではなく、この健常者の社会に対して明確な論理をもって打ち勝ち、真の人間社会を作る必要がある。だがそのためには、障害者が己の愚かさ、身勝手さ、ずるさ、甘えに対峙し、それを変革しなければ、真に人間誰もが納得する理論と、実践はできない。「守る会で障害者一人ひとりが社会に立ち向かう力をつけろ」「集団とはその個人を強く豊かにするために存在するものだ」。これが「千草の舎を守る会」という障害者運動の原点だ。そう伝えたかったのではないだろうか。

(ささきたくじ しののめ編集委員、光明養護学校卒業生)