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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

ろう者の歴史と文化を映す言語としての手話

大杉豊

耳の聞こえない人は、内部障害者などと同じように「外見ではわかりにくい障害者」とされる。電車やバスの車内で知らない2人が突然手を動かして話し始めるのを見て、そこに耳の聞こえない人がいることを知ったという経験は皆さんお持ちだろう。

耳が聞こえなく日常生活で手話を使っている人たちを「ろう者」と呼ぶ。ろう者は音が聞こえにくいから火災警報や人の足音など音声情報の入手に困難がある。また、ろう者は手話を解しない一般の人々とのコミュニケーションに苦労する。情報とコミュニケーションの保障については「耳が聞こえない」という個人の障害を補償するアプローチが長年とられてきたが、最近は社会に障壁(バリア)があるという考え方で、音声情報の視覚化や、手話通訳の養成などが公民一体で進められてきている。手話単語集の出版も多様化し、手話は豊富な語彙(ごい)と、音声とは異なる文法を持つ言語であるとの基本知識の普及も進んでいるように思う。

本稿では、手話がろう者コミュニティーの中で発展し、ろう者の歴史と文化を映す言語であることを、第二次世界大戦当時に遡(さかのぼ)るろう者の生活記録を通して再確認し、手話を文化的な視点で捉え、ろう者コミュニティーの歴史を編み直すことの重要性を提起したい。

1961(昭和36)年、映画監督の松山善三氏は、戦後間もない時代のろう者夫婦のストーリーを描く「名もなく貧しく美しく」で、手話がろう者の言葉であることを巧みなカメラワークで一般に伝えた。ろう者夫婦が電車の窓ガラス越しに手話でコミュニケーションを取るシーンは確かにろう者の日常を描いており、手話を文化的な視点で捉えた一例であろう(まだ手話が周りから蔑(さげす)まれていたこの時代、このシーンで周りの人々が2人の手を使った会話に無関心であるのが異様に映ったが…。)。松山氏は、ほかにもろう者の日常をリアリティーに伝える方法として、「ろう者が道を歩いていると、足下に小石が転がったので、その方向に目をやると同じろう者の夫が自分を呼んでいる」というシーンを挿入した。耳が聞こえる人はこのシーンを「なるほど」としか思わなかったであろうが、ろう者コミュニティーでは問題視された。「小石が人にあたったらどうするのか」「ろう者同士はこんな方法はとらない」など違和感を持つろう者が多かったようだ。

その一人である山地彪(やまじたけし)氏の生活史に触れたい。山地氏は1934(昭和9)年生まれ、手話法全盛期の大阪市立聾学校に学び、大阪での就職、結婚を経て、1966(昭和41)年に妻と子ども2人を連れて米国に移住している。筆者は米国生活時代に、山地氏へ数回のインタビューを行って手話による語りをビデオ映像に収録し、その内容を日本語に翻訳する形で『聾に生きる~海を渡ったろう者 山地彪の生活史』(2005年、全日本ろうあ連盟出版局)にまとめた。この本からエピソードをいくつか紹介したい。

山地氏は両親、妹の全員がろう者の家族で、第二次世界大戦での米軍による空襲を経験している。空襲警報の音が家族の誰にも伝わらないという切実な問題があった。そこで、山地氏の父が工夫したのは、玄関の引き戸を開け閉めするとその引き戸に紐(ひも)でつながれた重しが上り下がりして、床に落ちるときに振動を生むという仕掛けであった。重しは二つ作られ、ひとつは居間に、もう一つは寝室に取り付けられたので、昼も夜もその振動に家族の誰かが気づいて、すぐに防空壕へ逃げる準備ができるというわけである。ただし、隣人が空襲警報の音を聞いてすぐに引き戸の開け閉めをしてくれる必要があった。このエピソードのキーワードは「音声情報をろう者が入手する仕掛けの工夫」と「耳の聞こえる隣人の協力」であろう。この2つはどちらもろう者が生きるために必要なものであり、2つがセットになって初めて、ろう者の文化とは何かを語りかけてくる。

実は山地氏は小さいときから米国へのあこがれを持っていて、米国への移住を夢見ていた。終戦後間もなく、米軍の兵士カールトンさんとの交流が始まる。映画館で手話を使っていた中学生の山地氏にカールトンさんがアメリカ手話で話しかけたのがきっかけだったという。日本とアメリカで手話は全く異なるが、カールトンさんの両親がろう者であることが大きな決め手となり、カールトンさんが山地氏の家に毎日のように通って夕食の団らんを一緒に過ごすまで交流が深まったという。カールトンさんはやがて朝鮮戦争で戦死するが、その後も彼の家族から山地兄弟に学資など援助の手が差し伸べられたことで、山地氏のアメリカへのあこがれはいっそう強まった。

このエピソードが示すキーワードは「手話による国際交流」、そして「ろう者コミュニティーのつながり」であろう。手話は万国共通ではないが、身振り手振りで物事を示すコミュニケーション方法から発達していることは世界中の手話に共通している。耳の聞こえる人は言葉が違えば意思疎通にだいぶ時間がかかるが、耳の聞こえない人は手話が違っても意思疎通ができるまでにそれほど時間を要しないという事実は、手話が身振り言語であることを示すのと同時に、ろう者あるいはその家族であれば、聾学校、ろう者差別、職場での問題など共有できる話題が豊富であることを示している。共通の話題を手話で語り合えることはろう者コミュニティーの形成を促す重要な条件であり、このろう者コミュニティーはろう者に理解を示し、手話を使う耳の聞こえる人の参加を阻むものでは決してない。

ろう者コミュニティーの発展は戦前からあったが、全国的な組織である全日本ろうあ連盟が戦後間もない1947(昭和22)年に結成され、民法第11条改正や運転免許取得など、ろう者の人間としての権利の獲得に向けてろう者コミュニティーを牽引する役割を果たしている。

山地氏は大阪のろう協会で活動した時期があったが、移住後は、米国での暮らしの様子を両親への手紙の形で日本聴力障害新聞に寄稿している。なかでも山地氏が1966年に運転免許を取得したニュースは大阪のろう者コミュニティーで大きな話題となり、「ろう者でも運転はできる」「米国は進んでいる」といったメッセージが仲間を勇気づけたことは想像に難くない。

日本でろう者に運転免許取得の扉が開いたのは1973(昭和48)年のことである。「ろう者コミュニティーの発展」と「米国は社会参加が進んでいるという伝聞」がこのエピソードで示されるキーワードであろう。特に後者については、米国が良い意味でも悪い意味でも戦後の日本におけるろう者の社会進出のモデルとされてきたこと、それはほかの障害者の権利獲得や自立運動にも共通しているようである。

これら山地氏の語りは一つ一つが心に残る話であり、インタビュー実施当時、米国暮らしという経験を共有していた筆者にとっては、「ろう者の生活など文化は健聴者に理解されず、ろう者のコミュニケーション手段である手話は健聴者に正しい言語として受け入れられず、結果としてろう者は世界中の至る社会で健聴者から抑圧されている」との山地氏自身の世界観を受け入れる、貴重な体験となった。そして、この手話で語られた記録を「口述記録」でなく「手述記録」と名付けた。ろう者の歴史と文化を映す言語としての手話に対する尊厳である。

筆者は大阪在住のろう者と交流があるので、大阪地域特有の手話表現にも多く接している。「名前」を意味する手話が東京と大阪で異なる表現であることはよく知られているが、山地氏の語りで一番強く印象に残った大阪地域特有の手話は〈学校〉である。今の大阪では〈家〉を示す左手の下で右手が〈教える〉の動きを取る一つのまとまった表現であるのに対し、山地氏のそれは〈家〉〈教える〉〈みんな〉〈場所〉と4個の手話が非常に速いスピードで続く表現である。山地氏は大阪を離れた1966年以来、ずっとアメリカ手話を使う言語環境にあるので、山地氏の手話は1966年当時の大阪地域の手話の形をよく残しているのだろう。逆に言えば、大阪では50年弱の時間が流れる中で4個の続く表現が一つにまとまる変化があったと言える。時間の流れとともに変化していくのは音声言語でも観察される現象であり、手話の場合はそれに加えて一つ一つの手話表現の語源が見えやすいという面白さがある。前の例では、〈家〉が家の屋根の形から、〈教える〉が教鞭を執る仕草から来ているとの説があり、日本人の身振りから生まれた日本の手話が、日本社会の歴史と文化を映す言語でもあることを示唆している。

本稿では、手話がろう者の歴史と文化を映す言語であることを、山地氏の生活記録を例に示した。手話を文化的な視点で捉えてろう者コミュニティーの歴史を編み直す「ろう者学」プロジェクトの発展に期待したい。

(おおすぎゆたか 筑波技術大学准教授)