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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号

証言3.11
その時から私は

車いす常用者の自宅での避難生活と震災から感じたこと

巴雅人

M9.0 大津波警報 その時自分は

2011年3月11日金曜日午後2時46分、私はお客様との商談を終え、海岸から約7キロ地点の仙台市若林区内を車で走行中だった。今まで経験したことのない大きな揺れを感じ、すぐに停車し必死に車のハンドルにしがみついた。近くのコンビニや民家から人々が屋外に逃げ出し、動けずにすぐさましゃがみ込んだ。電柱が激しく揺れ、頭上の変圧器が落下しないかと気がかりだった。揺れの大きさも、その長さも尋常ではなく、大きな不安が頭の中に広がっていった。が、同時に必ず発生すると繰り返し広報されていた『宮城県沖地震』がこれだと思い、少しは頭を整理できた。ラジオから『大津波警報』のニュースを聞き、これはただ事ではないと感じたが、津波到着までは時間があったので愛犬を助けに戻らなくてはと思い、そこから2キロ海側寄りの自宅に向かった。戻る途中の街並みは、大きな揺れの割には建物の損傷は以外に少なく、自宅もそうであってほしいと願った。

自宅に着くと、家族もすでに帰宅しており、家にも外観に大きな損傷はなく、ひとまずは安堵した。安堵の理由は、私は脊髄損傷で車いす常用者なので、住む場所が壊れると極端な不便を強いられるからである。しかし家の中は家財が散乱し、車いすで動ける状態ではなかった。

津波からの避難も考えたが、海岸から4.6キロ離れ、高速道路2本で囲まれている自宅周辺には津波が到達しても床下程度と判断し、さらに指定避難所では車いすの私では到底移動やトイレの問題があると考え、自宅での避難を決めた。そのうちに、自宅から800メートル先まで津波が来たとの情報が口コミで伝わってきた。

震災後の検証で、津波犠牲者の一部は自宅に戻ったのが原因とされたが、私もやはり自分の所までは津波は来ないと判断し、仮に自宅が今回の浸水域にあったとしても同様の行動をとっていたと思う。

激しい揺れ、巨大津波、そして降りしきる雪と急激な寒波、まるで映画の中にいるようで『日本沈没』の文字が頭をかすめた。

自宅での避難生活開始

余震や暖房を考慮すると自宅で寝るには危険が多いと考え、家族3人車中で寝た。車内の小さなテレビからは友人のいる沿岸地域の水没や、同じ区内のいつも通る海辺の集落が津波に飲み込まれ、すべての家々が流されていく映像、ラジオからは隣の地区での信じられない数の人的被害の速報、そして未明の原発事故の一報…。ひっきりなしに続く余震の中、眠れない不安な夜を過ごした。

その夜の星の瞬(まばた)きはこれから先二度と見られないであろう数の星が、漆黒の闇に、かつて見たことのないような瞬きを見せてくれたことが脳裏に焼き付いている。

翌朝5時頃、人の気配で目が覚めた。こんな大変な時に新聞が配達されるなんて、日本は何という国でしょう!いつもと変わらぬ新聞配達に感激し、大規模な被害や迫りくる津波写真が掲載された記事に目を凝らし、2日目が始まった。停電している冷蔵庫から食材を取り出し、とりあえずは腹ごしらえである。また時折つながる携帯電話で無事を伝えた。午後には余震による大津波警報が再び出て、家族に背負ってもらい自宅の2階に避難した。

電気を使用しない反射式の石油ストーブが2台あったので、介護を受けている老人のいる隣の家に届けた。これは煮炊きもでき、オレンジ色の炎は真っ暗な室内を歩ける程度には照らしてくれるので大変重宝した。

その夜からは、玄関に近い居間で寝たが、余震の時にすぐ逃げ出せるよう着衣のまま、靴や携行品、懐中電灯を枕元に置き、懐中電灯の電池を節約するためロウソクの灯火とラジオのニュースで過ごした。緊急地震速報の警報音が夜通し続き、ラジオから流れる原発事故ニュースもどんどん深刻さを増しているのが分かった。

3日目には近所の親類や知人との行き来があり、人々の動きが見えてきた。そして、その動きと一緒に多くの訃報や不明者の名前が耳に入ってくるようになり、私の知人も数名不明と知った。また、納棺士の隣人からは、凄惨な現場の状況も伝え聞いた。

4日目未明には待望の電気が復旧した。テレビから流れてくる、津波の映像や被害の状況を大きな画面で確認し、ただただ驚くばかりで声にもならなかった。

車いす友人の救援

友人は車いす常用で、宮城県沿岸部東松島市の宮戸島在住なので、津波の被害があったろうと気がかりだった。ほどなく、家族全員それぞれ職場や避難所で無事でけがもないと聞いて安心した。また、住宅も無事であるが交通網が寸断され、当分自宅には戻れないとのことだった。

その友人と幼稚園児の娘は4日目にわが家に到着し、その後避難所にいた家族も合流し、全員顔を合わせられたのは、震災後9日目の3月20日であった。そこから、車いす常用者2人を含む9人での避難生活が始まった。極端なガソリン不足に加えて、食料、灯油の流通も少なく、3月中旬といえどもまだまだ寒いこの地で、屋外に数時間並んで入手するありさまだった。ちょうど震災前に満タンにした灯油タンクがあったので、近くの農家と、米と灯油を物々交換したりして物資を調達した。お互い助け合いながら、日頃にも増して近所とのコミュニケーションが活発になったのもこの時期からである。

失ったものも多い災害ではあったが、人々の心に『絆』が芽生えたのは確かだ。この時に生きてきた者として、その意味を記憶に強く刻み、何かを学びとれれば、と願うばかりである。

(ともえまさと 有限会社車座(くるまざ)代表取締役社長)