音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

  

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年11月号

文学やアートにおける日本の文化史

日韓戦中後、古典前衛芸術物語

金滿里

1983年に設立の私が率いる劇団態変(たいへん)は、劇団とはいっても台詞劇ではなく、車イスや松葉杖も使わず、身障者が自らの身体の障害自体を露わにするレオタード姿で、舞台床面を転がる・這う・立つといった日常にある身体本来の動きを使って私の作・演出での作品を、身体表現舞台芸術をやる集団だ。

その身体表現の捉え方は、古くからダンスや舞踊で人が身体表現を希求してきた歴史の中でも、類を見ない身体観の新たな方向性を追求している。

劇団態変での身体表現を作り出す私の視点に、歴史性を背負う身体、ということがある。それは、様々な政治・差別への突破口としてあらねばならない身体への可能性なのである。その身体表現は、前衛芸術でなければならないのだ。その要因について書こうと思う。

私の母金紅珠(キム・ホンジュ 1912生まれ)は、今でいう韓国(当時は朝鮮)古典芸能(舞踊・民謡・楽器・お芝居等々)の大家として、第二次世界大戦の1934、5年頃に夫に連れられ日本に渡って住みつき、日本の侵略で朝鮮民族の文化を禁止していた、朝鮮古典芸能への弾圧を跳ね除け純粋に朝鮮古典芸能のみを演目とする一座(今でいう劇団)を、母自身が看板女優で座長、母の夫がマネージャーで団長で、作り日本全土での巡業興行を展開していたという、日本の歴史上では隠された、在日コリアンにとっても余り知られていない歴史の一面を体現した貴重な芸術家であった。

具体的には、日本中で母の朝鮮民俗芸能は、日本の地で差別にあえぐ在日朝鮮人の魂を揺さぶり感激に咽(むせ)び、堺市では芝居小屋に入りきれない人々で溢れかえり桟敷席が落ちて死人が出たほどで、興行は日本にいた朝鮮の民衆によって人気を博していた。巡業は、南は九州全土、北は樺太までを網羅した。

ある時は日本へ強制連行され、無理やり炭鉱労働等で働かせられていた朝鮮人が多くいる軍監視下現場に軍奨励の慰問で訪れてもいた。北海道の強制労働現場へ慰問した時の話で、母の古典芸能に触れ感激の余り、お里心を触発されたかで、脱走をしようと走り出した労働者がいて、軍によって直ぐさま銃殺される事件の現場にも遭遇したという。

そして、東条英機の感謝状も寄せられた、と母に見せられたことがある。それは、朝鮮人にとって民俗芸能とは、苦難の政治の歴史性から政治と芸術の両方を体現したもの。民族の己のアイデンティティにとって欠くことのできない支柱としてあり、どんなに当時の日本国家が民俗文化を奪おうとも、奪い切れなかったことがうかがい知れる逸話だと思う。

母は、民族の魂を伝え続けた、気骨な古典芸術家であった。

1953年、私は(ここからは『生きることのはじまり』に詳しくある)母の44歳の時に10人目の子として生まれた。そして、3歳でポリオに罹患するまで、母が自分の跡継ぎにと考えていたほど、私は踊りが上手で才能があったという。

しかし、3歳でポリオに罹患した後は私にはその期待は掛けられず、重度のポリオとなれば古典芸能の世界ではお呼びでない世界になるのだ、と身体を否定される最初の記憶がそれだ。

そんなことで私の障害を嘆くことはしても、また障害者の親にはよくある、逆にそうだから一層に末娘の私への母の溺愛は凄(すご)いものがあった。しかし、当時の教育を重度障害児に受けさせるのと、訓練を施し少しでも障害が軽くなることを希望する母は、私の3歳から17歳までのほとんどを病院・収容施設で療育させた。

1956~1966年、韓国古典民俗芸能の家の環境から一変し、障害児施設入所。施設では、重度・中度・軽度といった障害の程度で扱われ方の酷(ひど)さであった。目の前で友人と思っていた友が、ひどい待遇(今でいう職員からのイジメ)が元で、あっ、という間に寝た切り重度になり、私の問いかけにも反応しなくなり、そして死んでいく。そんなことが何度も起こり、障害者への非人間的な、命も奪われて行く生活であった。

母は、毎週の面会日には10年間欠かさず訪れ、掛け値なしの誠心誠意な親としての純粋愛情で変わらずであった。

だが、自分は障害者だから、舞台や表現といった芸術とは縁もゆかりも何の関係もない無縁者だと思っていたことには代わりはなかった。

それよりも何よりも先ず、重度の障害者として生きる道が全く閉ざされていて、前途は真っ暗な闇に閉ざされている。そのことが一番の問題で、このままでは生きれない状況が近づいている、のを感じていた。

1966年、17歳で私は施設から退院し在宅へ戻る時期で家に戻った。明るい未来も若さを謳歌することも将来も勿論ない閉塞の極みであった。

1972年、障害者自立運動の「青い芝の会」に触れ、水を得た魚のように飛び込んで活動しだした。結局、現状への打開抜きには、何事も前には進めない、酷い状況の只中にいたのだから、世の中への扉をこじ開けて行くしか当時の障害者は、道はできて来ないのであったのだ。そして障害への捉え方に対し、ずっとおかしい、と思っていたこと、がはっきりと論理で言い当てられていることへ勇気を得たのだ。

運動の思想的内容はここでは割愛するが、今の私の言葉で表現すれば、障害自体を否定することでは、もう自己としての存在は有り得ず、障害を切り離すのではなく、その人固有にある眼や鼻と同じく欠くことのできない血肉の1部だ、ということ。社会への条件整備で差別解消を訴えるのではなく、人間の意識や思想への問題を根底から突いたところに、それだ!とするものがあったのだ。

1977年、障害者自立開放運動を辞めた。

自分の中から本当にやりたいことが出てくるまで、気休めにものをやるのはしない、と決めた。そして結局やりたいと思うことが、1983年、劇団態変旗揚げでの身障者の身体表現だった。

身障者の身体は、単なる機能障害ではなく、そういう個別な有り方でしかない。そういった有り方事態を見詰めて、個別な障害が、どういうものなのか、といった障害そのものから立った主眼が必要だと思う。障害事態の提示である。その方が一般社会にとっても、世界観がぐ~んと広がるではないか。

これは社会運動ではなく既(すで)に芸術的領域なのである。結局、私にあるのは、自分が何者か、への尽きない興味である。そういう意味で、障害の身体は、尽きない探求への奥の深さを自らの身体にあるのを放っておく手はない。

障害となった時から、普通ではない、と社会は健常者の規範を押し付けてくる。如何(いか)に世の中の尺度が、健常という五体満足の優生思想で当たり前に塗り固められているか、を思い知らされる。しかしそれに承服できない、自己のありのままの存在の絶対肯定が、低通音として自己の中に流れているかどうか、は結構個人差によっての大きな分かれ道だと思う。私は母の韓国古典芸能の影響で、自己の身体への、健常だった時の踊れていた身体への固執ではなく、それよりも身体が変化する障害を受け入れ、そのありのままを肯定するといった、自己存在への凝視をしながらもう一方では、他人事のように客観視する、という両方の視点が身体表現芸術として実は培われていたのではないだろうか、という気がする。

障害者運動ではっきりとそういった一般通常概念を一旦ひっくり返し、その次に全く違った概念から何かやりたいと思う時に、自己の身体からくる身体表現であったのだ。それは母の古典身体舞踊をも再否定した上でしか有り得ない。だから、私が行うのは前衛身体表現としての、劇団態変だったのである。

私が紆余曲折を経て辿り着いた、劇団態変という芸術活動へ、母は自分の子どもで結局は芸術をやっているのは身体障害の末娘だけだ、と人に話して喜んでいたという。そして1998年、86歳で母は他界した。

私が母の生前に生涯の聞き取りテープを録(と)り残したのが元で、母が日本へ来るきっかけとなった夫は、当時の日本統治下から民族独立を闘う独立運動家だったことが判(わか)り、謎だった母の活動も判ってきた。

それで2009年、母の夫の物語『ファン・ウンド潜伏記』という脚本を私は書き、劇団態変で上演を行なった。それを昨年2011年3月に、韓国のソウルと母金紅珠と夫が暮らした婚家のある固城(コソン)という田舎で上演を果たした。その時の公演が切っ掛けで、韓国古典舞踊家の目に止まり、同じ年の9月にその舞踊家の招聘を受け、韓国古典芸能の殿堂であるソウルにある南山国楽堂で夫黄熊度(ファン・ウンド)の『ファン・ウンド潜伏記』を再演する機会を得られた。私は妻の金紅珠の役でずっと出演している。

(きむまんり 劇団態変)


【参考文献】

・金満里『生きることのはじまり』筑摩書房、1996年