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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年12月号

1000字提言

被災地は今

鈴木るり子

「20歳になりました」「私は20歳を3回過ぎました」

にぎやかに「お茶っこ飲み会」が始まった。会場いっぱいに集まったメンバーは、この1か月間の出来事を話し合い、お互いを気遣いながら、歌を歌い、ワイワイガヤガヤおしゃべりにはなが咲く。

毎月第4木曜日は、月1回の被災地から110キロ離れて暮らす人々の集まりの日である。私はそこに血圧計と体重計を持ち込み、「この1か月体調いがったが」と聞きながら先月からの体調の変化を記録する。今月の誕生会に20歳を迎えた直哉君がいた。「同じ、同じ」と散髪した頭を手でなぜ、傍らでお母さんが泣きながら「お父さんと同じヘアスタイルの意味なの」と話してくれた。お父さんは、自宅兼店舗と共に津波に流され行方不明のままである。「心の時計は止まったまま」「突然襲い掛かる喪失感に、どうしようもなく流れ落ちる涙を拭かないでいると直哉が顔をのぞくの」。直哉君はダウン症である。音楽が好きで、みんなの人気者である。「直哉君お誕生日おめでとう!!」。1時間後、被災地に戻らない決意をして選んだみなし仮設住宅に帰って行った。

2011年3月11日東日本大震災。津波は大事な人も財産も一飲みにして立ち去った。「あとは任せたよと言いながら」残された私たちは、ただ茫然と心を亡くしたようにその後を過ごした。

岩手県大槌町は、市街地の52%を失う大規模災害を受けた。行政・医療・教育・警察・消防施設を失い、多くの住民の命も奪われた。2日後に、わが家を見に行った。寸断された道。瓦礫と化した町。消えてしまった私たちの暮らし。会う人会う人に涙でぐちゃぐちゃになった目で会話するしかなかった。「生きていてよかった」「ウンウン…」声にならないうなずきだけの会話。「できることをしよう。代弁者になろう。大事な人に別れを告げることも許されず命を失った人々の…」。誰にでも起こる災害死だとしても1,400人の尊い命はあまりにも重いものだった。

被災から1年7か月。被災地は今、棲家(すみか)が大きな問題になっている。棲家とは住処であり、生きる場だ。わが家は、危険地域に指定されて家屋の再建はできない。復興が進めば進むほど問題は潜在化し、外部からの支援は難しくなり、内部でも住民への支援が難しくなっていることを実感している。日頃から身近な保健師であることが、住民を支え、住民の信頼を得ることにつながっていると強く感じている。しかし、保健師は、信頼だけではだめで、施策として強く展開できる力が必要と改めて認識している。

110キロ離れて暮らしている人が「海を見て死にたい」と話す時、手を握り締め、希望は叶えられると力を込める。津波は老化を運んできた。時間はあまりない。棲家の再建は急がなければならない。

(すずきるりこ 元大槌町保健師、現岩手看護短期大学教授)