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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年12月号

証言3.11 その時から私は

3.11と私、そして今

野田善弘

2011年3月11日午後2時46分、私は勤務先の宮城県石巻合同庁舎にいた。私のデスクは別棟保健所1階、県民からの電話照会に対応中であった。突然の激しい揺れは長く続き、収まる気配がない。電話はどちらからともなく、「地震が激しいのでいったん切ります」と受話器を置いた。激しい揺れは止むことなく、テレビは落下し、机の上の書類は散乱し、キャビネットは倒れるところ。古い建物のこの庁舎は天井が抜けるのではないか、と思ったほどだ。脊髄損傷で車いす使用の私は、地震が小康状態の間、職員の誘導で机や脇卓を押しのけ、落下したテレビをよけ、床上に散乱した書類を車いすのタイヤで踏みながら、やっとの思いで外の駐車場に避難した。

駐車場に避難しても余震はまだ続いている。宮城の3月はいまだ寒く、みぞれ混じりの雪が降り続いていた。避難場所の駐車場には職員のほか、地域住民も集まってきた。駐車場にテントを設営し、ブルーシートを引き、石油ストーブや毛布も準備した。ひと通り準備が終わった後、「水が上がってくるぞ!」という声。側溝を逆流してきたのは海水、まさかの津波がやってきた。石巻合同庁舎は沿岸部から2キロメートルほど離れているが、津波は直接押し寄せたのではなく、北上川を遡(さかのぼ)った津波がゆっくりと上ってきた。職員・地域住民と共に5階建ての庁舎の2階以上に避難した。水位はゆっくりと上昇し、駐車場の車の屋根まで完全に水没した。

職員・地域住民は合同庁舎内の会議室に分かれて入り、ストーブ・いす・段ボール等準備した。避難者は約500人。庁舎内の売店や自動販売機から、水・ジュース・菓子等を都合しても到底足りない。受水槽からも水をくみ出した。薬を飲む必要のある方から配られ、職員は1日にアメ玉1個・水は紙コップ半分であった。また唯一の情報源であるラジオから断片的に悲惨な状況が流れ、不安で寒い避難生活を過ごした。携帯電話は間もなく通じなくなった。自宅は東松島、もちろん海のすぐそばである。ラジオから流れる情報で、東松島市野蒜地区で遺体が200体以上と報道され、いっそう不安となった。

結局、石巻合同庁舎で三夜を過ごし、周囲の水が引いてから4日目に自衛隊の小舟で、先に地域住民を避難させ、職員は最後に庁舎から脱出した。津波の被害のない内陸の宮城県の事務所に移動し、そこでさらに一泊した。長く寒く不安な日々だった。

家族の安否が分かったのは震災から5日目だった。私の車は水没したので、無事だった職員の自家用車で自宅へ送ってもらおうとしたが、周囲の状況は想像を絶する光景で、野蒜海岸の橋も被災し自宅へは帰れなかった。当分の間、帰宅できるような状況では、到底ありえなかった。その後、親類宅で過ごした娘と共に仙台の友人宅に一時避難した。妻・息子・父親とは、避難所となった地域の小学校から9日後、舟で脱出し合流した。

私の自宅は、日本三景松島の東側に位置する松島湾最大の島、「東松島市宮戸島」である。橋でつながっているが、この橋が被災したため完全に孤立した。しかし、島の住民のほとんどがここで生まれ育ってきたため共助の精神が強く、米・野菜・ストーブ・燃料・発電機等持ち寄り避難生活を過ごした。

震災から4日後に自衛隊のヘリが入り、2週間後に橋が仮復旧した。自宅は松島湾側の小高い場所にあるので、家の手前で津波は止まった。自宅の被害はあまりなかったものの、道路・橋・電気・水道がすべて復旧するまで約3か月かかった。この間、石巻市に程近い東松島市矢本地区で、家族でアパート住まいをした。

職場は2回引っ越しをした。1回目は県立石巻西高校、2回目は石巻専修大学である。石巻西高では余震の続く寒い中、専修大学では体育館の蒸し風呂のような中で仕事をした。震災対応業務の中、被災した合同庁舎の後片付け、床に散乱・水没した書類の乾燥・コピーなどの作業に追われた。石巻合同庁舎は、結局、大規模修繕を行い使用することとなり、震災から6か月半後に戻ることとなるが、その前に人事異動により転勤することとなった。

今回の大震災を経験して、車いす利用者の災害時の困難さを改めて感じた。一方、数多くの方々に助けられた。米・食料品・ガソリン他支援物資を、ガソリン入手難の中、届けてくれた。また、しばらくご無沙汰して連絡をとっていなかった方々からも支援をいただいた。なかには連絡が取れなかったため、心配して地域の避難所中を探し回ってくれた友人がいた。人は一人では生きられない。生きていくことはできない。人と人とのつながりを痛感した。

最近、地元新聞で気になる記事を読んだ。岩手・宮城・福島3県で障害者手帳所持者のうち、東日本大震災での犠牲者の割合が1.5%と、全住民の死亡率(0.8%)の2倍近くに及んだという。自力での移動が困難な障害者が、いかに避難し、避難後の介護やケアをどうしていくか、課題は重く大きい。

震災後、自分なりに、何より自分の目線で、地域に貢献できることはないかと考え、「宮戸島復興対策検討委員会(現・宮戸地区復興まちづくり委員会)」に参画することとなった。宮戸地区では若い世帯を中心に転出が多く、全体の約4割が減少した。このままでは地域の存亡にかかわる。これからは単なる復旧・復興ではなく、地域の再構築である。過疎が進む地域が被災し、その後どうしていったらよいか、皆で考え、皆で実践し、皆で歩んでいきたいと思う。微力ではあるが、その一助となるべく、地域の方々と共に、歩んでいる今日である。

(のだよしひろ 宮城県北部県税事務所次長)