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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年2月号

「笑われる」から「笑わせる」へ
―障害者文化の新しい拡がり

倉本智明

1 スイカ割りは障害者差別?

タオルで目隠しをし、棒きれをかまえた私に、周囲をかこむ友人たちから声援やはやし声がとぶ。「もうちょっと右、右!」「まだ1メートルくらい先だよー」「うわっ、こっちじゃないない、お願いだから私をたたかないでー!!」。砂浜のどこかに置かれているであろうスイカの所在を求め、私は前後左右をさぐりつつすり足で進む。半ば真剣に、半ばおどけた演技をまじえつつ。

スイカ割りは愉(たの)しい遊びだ。視覚を覆い、耳から入ってくるアドバイスや攪乱を目的とする冗談まじりのことばを頼りに目的物を探り当てる、ただそれだけのたわいもないゲームではある。幸運にも見事棒きれをスイカに命中させることができたとしても、熱く灼かれた砂の上に長時間ころがされていたスイカは、生ぬるく食べてもそうおいしいものではない。けれども、私たちは大きな笑い声をあげ、この素朴な遊びに熱中する。子どものころだけじゃない。大人にとってもそれは愉快なひとときだ。

だけど、この遊びにだめ出しをする声のあることをあるとき知った。その人物いわく、スイカ割りは視覚障害者を差別するものなんじゃないか、と。目隠しをされ右往左往する姿、それはにわかに仕立てられたゲーム上の役まわりではあるかもしれないけれど、街で時折眼にする視覚障害者のとまどった容姿を模倣するものであり、そこに生じるおかしみ、笑いは、視覚障害者そのものに嘲笑を向けることと同じなのではないかというのだ。

悪いが苦笑した。だって私は全盲の視覚障害者なのだ。ふだんから目隠しをしたのと同じ状態で暮らしている私にとって、スイカ割りなどお手のものだ。とはいえ、まちがえて空振りもする。「本職のくせに!」と健常者である友人たちが愉しげに笑う。そして私は、彼らよりもっともっと高く高く笑い声をあげるのだった。

2 笑われる障害者

ただ、スイカ割りを差別的ではないかと言ったかの人物を責めることはできない。事実、障害者がみせるふるまいや発することば、その容姿は、人びとの好奇の眼をひき、少なからぬ場面で笑いやからかいの対象となってきた。足を引きずるように歩く者の後ろに、その姿をまね、にやにや笑いを浮かべながら付き歩く何人かの子どもたちの姿をみかける、そんな光景も珍しくはなかった。

共生やインクルージョンといったことが言われ、人びとのものの見方が変化し、あるいは、あからさまなからかいの態度をみせることが憚(はばか)られるようになった今日でさえ、これに似た出来事に遭遇することがなくなったわけではない。むしろ、障害の種類によっては、侮蔑や嘲笑の態度を直截(ちょくせつ)に示されるケースも増えているくらいだ。

障害者に向けられるこうした否定的なまなざしは、文化のなかに深く埋め込まれたものである。文化というとなにやら高尚なものや小難しい知識の体系を想起されるかもしれないが、そういったものだけが文化であるわけではない。私たちが暮らしのなかで日々繰り返すふるまいや習慣、暗黙のうちに行動の指針としている常識といった事柄も、これまた文化である。

3 コミュニケーションと嘲笑

たとえば、友人や顔見知りの人と道ばたで出会ったとき、私たちは「こんにちは」とか「やぁ、久しぶり」とあいさつを交わしたり、軽く会釈をするなどしてコミュニケーションを図る。これも文化だ。この習慣に従うことで、私たちは互いにつつがなく過ごしていること、逆になんらかの変化があったろうことを知る。と同時に、あいさつを交わすというルールを守ることで、それぞれの関係に応じたかたちで、これまでと同様、これからも無用のトラブルを避け、うまくやっていこうよというメッセージを交換している。人が人と暮らしていく上で必要な潤滑油のような役割を、あいさつという文化・習慣は果たしているわけだ。

ところが、である。一見したところ、なんということでもなく思えるあいさつという行為を、ルールどおりには簡単に行うことができない人たちもいる。社交不安障害のために、声をかけられること自体が恐怖となり、震えを覚えたり、心ならずもそっぽを向いてしまう、といった人だっている。

笑いということでいえば、吃音のためにことばが滞ったり、肢体に障害があることで会釈するその姿が、慣れぬ健常者の眼からは奇異に映り、笑いをかみ殺す姿を見せられる羽目になったり、陰であざけりを受けるといったことだってあるかもしれない。すべての人がそのような反応を示すわけではないにせよ、私たちをとりまく文化はいまだそのような不寛容さのなかにあるし、ルールからの逸脱者は時にあざけりや笑いの標的となり、傷つけられることとなるのだ。

4 変化する笑いのベクトル

日常のなかに埋め込まれた障害者を嘲笑する文化は、芸能や文学といったジャンルのうちにも認められる。たとえば落語を例にとるなら、ろう者や盲人、あるいは知的障害を連想させる登場人物の奇天烈(きてれつ)なふるまいを笑いの源泉とするような演目がいくつもある。多数派である健常者が当たり前と考える行動様式からのズレを笑いの仕掛けとするわけだ。ただし、落語において笑いとばされるズレは、障害者のようなマイノリティのそれに限られたものでない点は付言しておく。武士や強欲な商人など、落語の愛好者の多くを占めた庶民層にとって権力の持ち主として映った人びとに対しても、そのふるまいはデフォルメされ常識外れのものとして笑いの矢が向けられた。

いまひとつ指摘しておく必要がある。同じように障害のある人物が登場する演目でも、演じ方によっては笑いのベクトルが大きく異なるという点だ。伝統芸能という枠で扱われているものの、落語の場合、一定の様式を重んじながらも、咄家(はなしか)により、語り口や所作はもちろん、構成に至るまでかなりの違いが認められる。時代による変遷なども相当に大きい。かつてある咄家が嘲笑を含むものとして描いた盲人の像が、いま別の演者によって肯定的な笑いを誘うといったこともよくみられる。

文化も聴衆も変わる。どちらが先かはわからない。けれど確かに、芸能の世界においても障害をめぐる笑いの質は変化してきている。

5 笑わせる障害者

さらに重要な点は、その担い手の変化だ。落語の場合もそうだが、その大半は障害をもたない人たちによって担われてきた。見世物などプロフェッショナルな領域において、障害を演じたり芸のよりしろとする者は以前から存在はした。日々の暮らしのなかでも、障害を逆手に笑いを喚起する術を身につけた人びとはいたことだろう。けれど、そのように自らを積極的に笑わせる主体として打ち出すことのできる障害者の数は限られていた。あるいは、生き延びるすべを他にもたぬがゆえ、これに望みをつなぐしか道をもたなかったという場合も少なくなかったろう。

いまもそうした状況がなくなったというわけではない。けれど、少しずつではあるが、笑われる客体にとどまることをやめ、笑わせる主体へと率先して歩を進める障害者の数は確実に増している。ある者はプロとして、別のある者は日々のコミュニケーションのなかで、自らの身体が繰り出す行為やことばの置かれた文脈を書き換え、笑いという手段で、これまでとは違ったかたちでの人と人との交わりを模索し始めている。正面から課題について議論し、実践を重ねていくことももちろん大切だ。けれど、笑いという回路をとおしてしか伝わらないものもある。越えがたい壁の向こうに降り立つには、さまざまなアプローチが試みられていいはずだ。

NHK・Eテレの「バリバラ」のように、マスメディアのなかにも、こうした流れを積極的に後押しする動きがみられるようになった。ブログやSNSも格好の部隊だ。幅広い分野で活躍する乙武洋匡さんのTwitter上の発言などは、いま障害と笑いについて考える際に外すことのできないもののように思える。

6 笑わせることの難しさ

しかし同時に、笑われる客体から笑わせる主体へという転換には、いくつかの困難がたちはだかっていることもあらわになってきた。

ひとつは、笑いというものが非常に受け手を選ぶたぐいの表現行為だという点だ。これはなにも障害者のそれに限ったことではない。ある人にとって爆笑もののギャグが、別の者にとってはどこがおもしろいのかさっぱりわからないといったことは珍しくない話だ。当然、笑わせる側の技量ということもある。プロのお笑いであれ、暮らしのなかの冗談であれ、それぞれに要求されるセンスや技術といったものがある。けれども、それだけでは決してないのだ。たとえて言うならば、同じように音楽が好きといっても、ベルリンフィルの演奏に感動する者もいれば、ヒップホップにうきうきする人もいる。笑いの場合、音楽以上にストライクゾーンは狭いかもしれない。そのあたりを笑いの発信者は見極める必要がある。

障害と笑いについて考えるにあたっては、よりやっかいな問題も横たわっている。障害をネタにした笑いというのは、時にブラックユーモアの様相を呈する。状況が状況であるなら嘲笑の対象になりかねないものに異なる文脈を与え、背景を描き換えることで成立する笑いがそこには多く含まれるのだ。

具体例として、先にふれたTwitter上での乙武洋匡さんと周囲の人たちとのやりとりを挙げてみよう。

A:乙武さんは手相占いを信じますか?

乙武:信じるも何も、手のひらが…(笑)
https://twitter.com/h_ototake/status/42066677705342976

乙武:停電時には、車いすの充電もできない。エレベーター停止なら、帰宅も外出もできず。

B:そうなった場合、乙武さんはどういう手段で行動するのですか?

乙武:手も足も出ませんよ(ベタすぎ)!
https://twitter.com/h_ototake/status/51910964093792256

右のやりとりだけを切り出すと、黒すぎる笑いに戸惑いを覚えたり、回答として不誠実と感じる向きもあるだろう。ここにはTwitterというメディアに独特なコミュニケーションの作法や、そこでの乙武さんのキャラクターを知るか否かの違いも関わってくる。なおBさんの問いへの回答に相当する事柄を乙武さんは別の箇所で詳しく記している旨、念のため付言しておく。

世の中には、障害をネタに笑うことそれ自体が悪であるかのように誤解している人もいる。不寛容な常識でもって、自分たちと違った身体のありようやふるまいを笑われたくなんてもちろんない。けれど、笑いはほしいのだ。笑わせることで、これまで越えられなかった壁を越える契機をつかみたいのだ。困ったことにその境界の見極めはとても難しい。どういった関係にある、どういった嗜好をもつ、どういった感受性の相手に向かって、どういった笑いを仕掛けるか。これまで先駆者たちがそうしてきたように、私たちは失敗と成功を繰り返すなかから、ひとつひとつ手探りで見つけだしていくしかないだろう。

(くらもとともあき 評論家、元東京大学特任講師)