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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年3月号

時代を読む41

水上勉の「拝啓 池田総理大臣殿」と重症心身障害児

『中央公論』誌、1963(昭和38)年6月号に掲載された、作家・水上勉(1919~2004)から時の内閣総理大臣池田勇人(1960~64年在職)にあてた「手紙」である。すでにベストセラー作家となっていた水上は、前年に誕生した娘が二分脊椎症であったことから、障害者問題を我がこととして受けとめ、1万字を超える長文をしたためたのである。

「どうぞ、テレビでもごらんになるつもりで、私のこの拙文に3、40分あまりの時間をさいて下さい」と始まる文章は、およそ次のように展開されていく。

貧乏な家に育ち、金とは縁のない生活を送ってきたが、今は多額の納税者となったと、まずは自分の来し方を綴(つづ)る。作家としての地位を確立して、折に触れ障害のある娘への思いを発表したところ、思いもかけず全国から同様の思いを抱く親たちから手紙をもらうこととなった。300通を超えたというそれらは「障害児をもったために苦しまなければならなかった悲しみで充満したものばかり」であり、一つひとつが水上の心を打つ。

水上は、『厚生白書』をひもとき、書誌をつぶさに読み、全国の親たちの悲しみの原因は障害児・者への無策にあるという結論にいきつく。重症心身障害児施設の先駆けとなった島田療育園(現、島田療育センター)への政府の補助があまりに少額な現実に、民間の篤志家任せの対策しか持ち合わせていないのかと国の責任を問う。

さらに水上の論は、皆無とも言える障害者施策の根源に及ぶ。所得倍増計画を看板とした高度経済成長政策をひた走る内閣に対して、「自由民主党の幹部の方たちの考えは、なりふり構わず大資本の擁護を図るというやり方」と批判するのである。

反響は大きかった。肢体不自由児施設や知的障害児施設などの障害児施設が児童福祉法に書き込まれ、当時200か所を超える施設が存在していた。それらとて十分ではなかったが、肢体不自由と知的障害を併せもつ子どもの施設、18歳を過ぎてからの生活の場などさまざまな問題が、政策課題として検討されることになった。同じ年、重症心身障害児(者)を守る会が発足。親たちも動き出す。そして、1967年、児童福祉法改正によって、「重症心身障害児施設」が児童福祉施設として正規に誕生した。島田療育園同様、重症児への実践を重ねていたびわこ学園(現、びわこ医療福祉センター)が、2年間にわたる記録を映画「夜明け前の子どもたち」として公開し、社会に問うたのが68年のことである。

もう一つの問題、18歳以降の生活の場については、厚生大臣諮問機関「心身障害者の村(コロニー)懇談会」の議を経て、国立心身障害者コロニーのぞみの園の建設につながっていった(1971年開園)。

(中村尚子(なかむらたかこ) 立正大学)