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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年3月号

求められる生活再建時の支援

田中淳

東日本大震災でも、また多くの障害をもつ方々、高齢の方々が犠牲になった。NHKが被災市町村に調査をした結果では、障害をもつ方が亡くなられた割合は、2倍だったことを明らかにしている。その背景には、津波警報や避難勧告などの情報を入手しにくい、避難しようと思っても移動が難しい、といったさまざまな要因がある。

国土交通省の調査によれば、歩いて避難した人は、平均時速2.65キロメートルだったが、歩行困難な方と一緒の場合には、1.88キロメートルとなっている。10分間にすると歩行困難な方であれば310メートル程度となる。

今回の津波は早い所では30分ほどで到達しており、揺れが収まってすぐに避難を開始したとしても、それほど遠くまで避難することは難しかった。情報の入手に遅れれば、移動に時間がかかれば、安全な場所まで避難することは難しかったのである。さらに、内閣府の調査では、全体で6人に1人が津波に巻き込まれている。とっさに何かにつかまって流されずに済んだ人や、石の台に飛び上がってかろうじて難を逃れた人もいる。しかし、とっさの行動をとれる人ばかりではない。

在宅の方ばかりではなく、福祉施設に入っておられた方も多く犠牲になった。職員の方が懸命に搬送し、命を守ることができた所もあったが、3階をも押し流す高い津波に避難が間に合わなかったところもあった。同じように、多くの障害者や高齢者が周囲の人の力で助けられている。東日本大震災が襲ったのが、地域のつながりが強い集落だったからこそ、これだけの周囲の手助けがあったと言えよう。

しかし、その影で、支援に当たった多くの方が犠牲にもなった。助けることができずに、心に傷を負っている方も多い。避難に支援の必要な人がおり、支援がなければ犠牲になってしまう。しかし、支援をしようとする人の命を危険にさらす。避難に、時間的な余裕がない津波避難の難しさを示すひとつの現実である。

今回の震災は、緊急時にできることには限界があることを改めて突きつけた。三陸地域には、大事な人の命を顧みることなく、各自が「てんでんこ」に逃げよという人間の本性に逆らう悲しい言い伝えが伝わる。まさに、その言い伝えを思い出さずにはおられない災害だった。

もちろん、津波が来襲するまでの余裕時間が分かるようになった今ならできることもある。東日本大震災後には、何分まで周囲の避難を助け、それ以降は消防団員など自らの命を守るために避難を開始するかを決めた「撤退ルール」が広く考えられるようになった。少しでも多くの命を救い、少しでも支援者の犠牲を減らす現在の知恵と言える。しかし、すべての命を救うことはできない。何とかしなければならない。

残念ながら今の防災対策に、答えはない。当事者の、福祉の現場の多くの方々の知恵がほしい。すべての知恵を集め、地震から、津波から、河川のはん濫からすべての命を守るための努力をしていくことは、災害の多い日本では最も重要な課題の一つである。

ただ、この課題の重要さだけに目を奪われ、今できることをなおざりにすることも避けなければならない。生き延びた命を守り、生活を守ることだ。確かに、津波から命を守らないことには、それ以降の支援は無意味となる。しかし、災害による困難は直後だけではなく、生活再建までの長い期間、実は厳しい暮らしを被災者に強いる。災害が発生している最中、2、3日、半年、1年、5年、10年、それぞれの時期で大変さも、必要な対策も異なる。それぞれの方が置かれた状況でも異なる。当事者でなければ分からない困難も多い。

その困難は、日常以上に命に直結する。避難所で、仮設住宅で、あるいは自宅で健康を害し、命を危険にさらすようなことがあってはならない。私たち社会が確実に救える命であり、是非にも救わなければならない命だ。障害をもつ方、社会的に弱い方への支援は、今、必要であり、これからも必要なのである。

災害時にはさまざまな需要が急増する一方で、資源は潤沢には入手できない。道路が被災したり、物流が止まったりするからである。そのため、効率を上げるために、画一的なサービスを提供しがちになる。その画一的なサービスでは不十分な人がいる。日常から、それぞれの状況に応じたぎりぎりの自立を行なっている人たちが、地震や津波被害によってもたらされた環境の中で、自立するための人的な支援や物理的な環境が奪われて困難に直面してしまう。

あるいは環境の変化が大きく、自立のために積み上げてきた努力が通用しなくなってしまう。加えて、応急対策という画一的な制度に、最後の自立のための環境が奪われることは、防がなければならない。災害時要援護者対策とは、その多様性ゆえに、画一的なサービスからこぼれてしまう人がでないようにすることが本質である。

この画一的ではない、心の通じる支援は、災害時であっても、日常的なネットワークを通して行われていることが多いように感じる。個々の方々が置かれた多様性を知り、信頼と安心に支えられた日頃のネットワークこそ、災害時要援護者対策の基本なのだと思う。

しかし、限られた地域内の福祉資源だけでは、急増する福祉需要に応えることはできない。広域的な応援が不可欠だ。日常のネットワークを維持し、支える人的な応援体制が不可欠であることは、今回の被災地からも、指摘されている。個々の努力では、大規模災害に立ち向かうには限界がある。トータルな応援の仕組みが必要だ。

もうひとつ、制度や仕組みがあっても、必要な人に届かなければ意味がない。しかし、制度が充実すればするほど、複雑となり、全体を知ることは難しくなる。日常であれば、丁寧に説明し、個々の状況に応じることは、まだ可能である。しかし、災害時には、命を守るためには時間が勝負となる。ところが、障害をもつ方や高齢の方々に話を伺うと、「きがね」という言葉をよく耳にする。みんな困っているのに自分だけ、あるいはこんな事まで頼んではいけないのでは、という「きがね」である。

「きがね」を少しでも減らすには、なんでも困った事を気軽に相談できる「よろず相談」できる仕組みが必要だと思う。そこに行けば、必要なところにつないでくれる、情報がもらえる、といった場所だ。東日本大震災でも、ボランティアが展開した「足湯ボランティア」でいろいろな声が拾われている。気軽さもあり、有効な手法だろう。

もうひとつ、状況に応じた掲示もありうるだろう。視覚障害者の方向けには工夫がいるが、まずは単なる情報補償からスタートすればよい。その過程で、求められる情報や対応が浮かび上がってくる。

防災対策の中では、災害時要援護者対策として検討が進められている。しかし、この2例でも分かるように、福祉と防災の接合が求められる。防災対策を進める防災部局だけで実効的な対策を進めるには、限界がある。防災部局は、災害の被害や災害制度に詳しいけれども、福祉資源について詳しいわけではない。福祉制度の理念や目的に詳しいわけでもない。いざ災害が発生した際にも、実際に動くのは福祉の現場である。福祉行政や福祉専門家の協力がなければ、真に命を守る計画とはならないし、実行性も乏しい。日頃から、社会福祉に携わっている方々の考え方、知識、ネットワークを活かさない限り、活きた使える対策とはならない。

しかし、災害時要援護者対策は、防災部局の仕事となっているところが多い。阪神・淡路大震災で芽生えた社会福祉の世界における災害への関心を、より主体的に取り組まなければ、今、進行中の生活再建の動きから社会的に弱い多くの人々を取り残し、命を危険にさらしてしまう。今回の特集が、一人でも多くの命を守ることにつながってほしい。

(たなかあつし 東京大学大学院情報学環)