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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年3月号

文学やアートにおける日本の文化史

鑑真和上と私たち
~戒律、アート、自治~

坂部明浩

今年は鑑真和上の円寂1250年の年を迎えた。毎年6月6日の命日に、鑑真和上を偲び、御影堂(みえいどう)の鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう)を収めた厨子(ずし)の扉が特別に数日間開かれるが、今年は国宝の鑑真和上坐像を模した「お身代わり像」を作って、年に数日しか拝観できない国宝像に代わり常時公開されることになるともいう。

鑑真和上というと、僧侶たちの戒律が乱れていた奈良時代に、日本の僧たちからの要請に応じて、日本に戒律を伝えるべく、渡海を試み、5回の失敗を重ねる中で、ついに失明。それでもその困難を乗り越え、6回目にしてついに日本に渡ることに成功。当時の日本の僧侶や、天皇、貴族に授戒を成し遂げた強靭な意志の僧侶というイメージが一般には強い。井上靖の歴史小説『天平の甍』の影響もある。

それらのことに私も異論はない。が、和上が中途で失明されたということを基点として、本稿の連載テーマである「文学やアートにおける日本の文化史」に引きつけて改めて捉えなおすことで、私たちと鑑真和上との関係をもう少し身近なものとして考えることも可能ではないかと思った。もちろん、宗教上の解釈は研究者の地道な功績に教えていただかねばならない。その上でなお、宗教の波濤を越えて、私たちに届いてくるものに耳を澄ませてみたい。

鑑真和上本人は著作を残していない。が、和上坐像からは、沈黙の中の意思を感じ取られた人も多い。日本画の東山魁夷画伯がそのお一人だ。

画伯は昭和46年、唐招提寺の当時の森本長老から鑑真和上坐像の置かれる御影堂、その中の5つの間(部屋)の障壁画を依頼された。奈良、大和路の寺々、さらに全国の海や山を歩き回り着想やスケッチに2年。群青、緑青の岩絵の具で日本の光景が出来上がるまでに足かけ約4年、さらに中国を3回旅して墨一色の世界を描き上げ昭和56年に完成した。この10年の歳月。想えば、奈良時代、2人の日本僧普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)が伝戒の師を探して唐に渡って鑑真に出会うまでの約10年。鑑真と普照らが日本へ着くまでにさらに10年。和上が日本で活躍され唐招提寺にて円寂されるまでの10年とも重なってくる。和上の苦難の歴史を自身の創作期間10年の格闘をもって引き受けようとされた名作である。

御影堂の和上坐像公開の日。見学の人々の立つ部屋の、日本の海「涛声(とうせい)」の描かれた障壁画の障子が開かれると、その奥にある、観音開きの扉付の「厨子」の置かれた部屋が見え、その部屋の障子一面に、故郷、揚州の湖が見える。さらに和上坐像の安置されたその厨子の内側には、日本に漂着した最初の地、薩摩半島の秋目浦(あきめうら)が「瑞光」として描かれ、厨子の観音扉を開けば、「揚州の水が運河を通って揚子江に流れ、やがて日本の海に通じ」秋目浦に辿りつくまでの様子が一直線に私たちに伝わってくる。

失明前の光景(揚州)と失明後の日本の光景。そして和上も来日前に口にされた日本の長屋王(ながやおう)から贈られた「山川異域、風月同天」の仏縁の詩。場所は違っても風月は同じ。まさに、その月が厨子にも秋目浦の月として、日と対の形で描かれていた。きっと失明後にも、心の底に映り込んでいたに違いない月だ。

この一直線に圧倒する光景を2000年にドイツの映画監督、ヴィム・ヴェンダース監督が写真に捉えて、日本での「GANJIN―鑑真和上と世界の写真家展」で発表している。監督は、その10年ほど前に発表した映画『夢の涯てまでも』では、世界を飛び回り、その光景を動画に収める主人公が、実は盲目の母のために、世界中の映像を収集し、発明機器で母の視覚への再現を試みていたことが、私たちに知らされるという内容の映画であったが、まさに東山魁夷画伯が、日本の光景を見ることのなかった鑑真に向けて、日本全国を歩いたことがそこに思い起こされる映画であった。

さて、鑑真和上からやや離れるが(実は繋(つな)がっていると思うのだが)、盲目とカメラが伏流するテーマになっている文学に、小説『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』(ポール・オースター著)があった。映画『スモーク』の元にもなった短編だ。主人公オギーが下町ブルックリンで煙草屋を営む。彼はそこで12年間もの間、毎朝の日課のようにして同じ交差点の風景をカメラで撮り続けていた。

そのきっかけは、実は以下のようなものだった。

オギーの店から少年が万引きして逃げる時に、落としていった財布を手がかりにオギーは、その住所に辿りつくが、そこには少年の祖母と思われる盲目の老女が現れ、その孫(万引き少年)と主人公は間違われた。クリスマスの夜、だますつもりはなくとも、孫に会えて喜ぶ老女の姿に、本物とは違うとうすうす判(わか)ったとは思っても、立ち去り難かった。そのうちに老女は寝込む。と、そこに高級カメラが主人公の目に入る。財布を置いていく代わりにカメラを主人公は無断で持ち帰ってしまう。数か月後に返しに行くも、もうそこには他の人が住んでいた。

傍らでオギーのクリスマスの話を聞いていた友人が、「カメラだってもともと盗品かもしれない」とそっと慰める。そういう話だ。

ここには、先のヴェンダース監督の作品や東山画伯の絵と対極にある動機が12年の定点観測のカメラ撮影に込められていよう。が、ふと、ここまで極端でないにせよ、人間の心の奥底を見据えた時に、「悔む自分」を映しこむメディアがこの12年に及ぶ写真であったのかもしれないと思えてきた。

実は、そうしたことを、最初に伝えてくれたのが、鑑真その人ではなかったかと私は思う。鑑真を現代の私たちと宗教の波濤を越えて結びつけたいと思うのも、ここなのだ。

鑑真和上のもたらす戒律とは、自身の奥底を各自が内(戒)と外(律)から覗(のぞ)きこむための仕組みであり、その結果を自身の所属する僧団という組織が、まるでスクリーンのような役割になってくれて映し出し、その構成員全員で「悔む自分」の苦しみを共有する仕組みであったと思う。

鑑真和上自身、日本の人々の思いを叶えるため、あるいは宗教上の先人の転生の伝説などに導かれるように、無許可での渡海を決行したこと。また、その途上で弟子や日本の僧を失ったこと。日本へは行かないでほしいと、渡海を阻止する弟子(霊祐(れいゆう))もいたこと。言葉にはならないそれらの辛い思い(あるいは、和上でさえ「悔む自分」をお持ちになられたのかもしれない)を抱え込んだ上での、それ故に強靭な「戒」「律」なのである。

そうした内なる感情すべてを心の井戸に映しこみながら、やってきた日本において、出会った日本の大方の僧侶や貴族は、残念ながらその鑑真和上の思いとはうらはらに、鑑真一行を、授戒という形での正式な僧侶になるための「資格」を授けに来た人、という捉え方をした。和上の来日前の日本では、重税にあえぐ人たちが僧侶という抜け道があるのを知って、にわか僧侶になった、ということもそうした「資格」化に拍車をかけていた。

その後、数年後に鑑真和上は東大寺の戒壇での大役から身を引いて、新たに唐招提寺の和上となる。唐招提寺の「招提」こそ、四方から集まる場所というような意味であり、ここでは本来の僧団が「自治」を大事にして生活を持続する集団であるが故にこそ、守るべきものとして戒律があったこと、そしてそれを日々実践の中で、反省して顧みること(布薩(ふさつ))の場であったことがようやく実行に移された。これこそ和上の目指したものだろう。

自治の場としての僧団の実践において戒律を生かすこと。それは、今日の宗教ならずとも社会的集団においても重要なことであろう。

たとえば、自立生活センターのような障害当事者によるもの、または、今年映画『ワーカーズ』の上映で盛り上がるワーカーズコープのように、みんなが出資をして労働もするという協同組合の仕組み等では、主体的にみんなでルール(戒律)を築き上げ、守り抜くための現代版布薩が不可欠だと思う。

円寂1250年。鑑真和上の姿はそうした自治の象徴として、また、その私たちの心の底を映し出す鏡(スクリーン)として、これからもずっと御影堂から見守っていただきたいと願う。

(さかべあきひろ ワーカーズコープ元組合員)


※鑑真和上に関しては、永井路子の小説『氷輪』では、胡国(ここく)人の若い弟子・如宝(にょほう)が和上の手を引いたであろうとも推定されているが、和上が唐招提寺建立前に、そこの土を舐(な)めて、いい土地と言われていたとか、薬を嗅ぎ分けて整理したとか、あるいは、お経を校正したなど、視覚障害という状況においてその方法に興味は尽きない。日常において、戒律と同時に、こうした視覚障害から「見えて」くることも1250年前に和上が残されたもう一つの解くべきメッセージではなかったかと思う。

【参考文献】

・東山魁夷小画集『唐招提寺全障壁画』、新潮社、1984年

・東野治之『鑑真』、岩波書店、2009年

・王勇『おん目の雫ぬぐはばや―鑑真和上新伝』農山漁村文化協会、2002年、他