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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年5月号

歩み続けて50年、そして未来へ

木実谷哲史

島田療育園開園からの歩み

島田療育園(現島田療育センター)は1961(昭和36)年5月1日に、東京都南多摩郡多摩村(現東京都多摩市中沢)に日本で最初の重症心身障害児施設として設立された。その発端は、島田療育園の初代園長小林提樹と島田良夫との出会いに始まる。良夫は重いてんかん発作と知的障害の診断と治療のために、慶應病院小児科精神衛生外来の小林提樹のもとに通っていた。治療は困難を極め、後に言われる「動く重症児」に相当する行動異常を伴うようになる。到底家庭では面倒を見きれない状態となり、島田夫妻は施設作りに傾いていき、土地を探すため歩き回った。初めに話がまとまった千葉県の八千代台も施設建設と分かると大反対運動がおき、契約は破談となる。

その後、東京都南多摩郡多摩村に2か所の売地を見つけた。そのうちの一つが現在、島田療育センターの立つ地である。今では最寄り駅である多摩センター駅は、新宿から特急で約30分。駅のそばにはキティーちゃんのいる室内アミューズメントパークとして有名なサンリオピューロランドがあり、パルテノン多摩という大きなホールもあって賑やかな場所となっているが、当時は、島田療育園に行くための最寄り駅は京王線の聖蹟桜ヶ丘駅で、そこからバスで約1時間かかり、大きな蛇やうさぎもでる場所であった。

良夫の父、島田伊三郎は約1万坪のこの土地を買って寄贈した。時の電源開発総裁の内海清温が中心となり、まず募金を受ける組織として、1958(昭和33)年11月1日に日本心身障害児協会が発足した。会長は日商会頭足立正、理事長は内海清温が引き受けた。整地をアメリカ進駐軍が無料でやってくれることになったが、整地のための知識もなくただ工事を押し進めたので、台風の時には土が崩れて、隣地の水田を埋めてしまい賠償金を支払ったこともあった。

一番の問題は周りの住民の理解を得ることであった。病気がうつる等の根拠のない噂が飛び交い、何度も公会堂で住民との会談を開き説得に当たったが、理解を得るのは容易ではなかった。予定よりだいぶ遅れて、1961(昭和36)年5月1日に開園式を行った。

島田療育園をどのような性格にするかは厚生省でも論議が重ねられて、経営的な面から病院と施設の両者を併合した形で運営していくことになった。児童福祉法の中にも規定されていない入所と医療の二重性格を持った新しい形の施設となったのである。病院兼入所施設であるので、施設長は医師でなければならない。小林提樹が日赤産院小児科から赴任して島田療育園初代園長となったのである。小林提樹は自伝の中で「自分の意図通りに曲がりなりにも進められたのは初期の約10年間であった」と述べている。苦労の第一は経営が困難であったこと、第二は職員不足である。

1961(昭和36)年1月11日に、重症心身障害児療育研究委託費の名目で島田療育園に国庫補助400万円が初めて予算化されたのは、国として、重症心身障害児対策に取り組む姿勢を具体的に表したこととして大いに評価されることであった。

島田療育園を支えた人々

1965(昭和40)年3月には「秋田おばこ」の集団就職に助けられた。1965(昭和40)年2月6日、秋田県の日刊紙「秋田魁新報」に「秋田から看護の手を、東京島田療育園 入園待つ重症児ら」という4段見出しの記事が掲載された。これが秋田おばこ15人の島田療育園への集団就職のきっかけとなる。

これは、秋田県の障害児の実情について「身体障害、精薄(注・原文のまま)、盲ろうなど二重苦、三重苦の宿命を背負った子供たちが県内に18人もおり、東京にある重症心身障害児施設の島田療育園に入園を頼んだが、看護助手不足で断られた。一人の看護助手志望者があれば、2、3人の重症児が入園できる条件なのだが。誰か奇特な人はいないだろうか」と訴えた記事であった。

この記事の反響は大きかった。翌朝には電話での第一報が入り、続いて問い合わせや手紙が殺到した。厳しい選考の結果8人が推挙され、さらに島田療育園に直接志願した中から7人が選ばれ、ここに15人の「おばこ天使」が誕生した。

この秋田おばこたちは、マスコミを通して社会的関心を大いに集めることになった。その後1971(昭和46)年まで毎年「秋田おばこ」の援助を受けることになる。おばこ天使に助けられた小林は大いに感謝して、自分でできる奉仕を考えて講演、巡回療育相談などでその後、何回も秋田を訪れた。

小林が始めたもので特筆すべきもののひとつに「つばめ会」の開設がある。障害児たちにも他児との接触をさせる必要性をいち早く認識し、今でいうデイケアのような機能を持つ特殊幼稚園「つばめ会」を設立した。対象児は「現行の養護、保育、教育の場で受け入れられないすべての心身障害児」であり、これらの子どもたちが、いずれかの施設に受け入れられるまでの一時的過渡的な養護、保育の役割を受け持つという目的を持って、三越厚生事業団の援助を受けて始められた。

「つばめ会」では、ドイツからディアコニッセとして来日した看護師のヨハンナ・ヘンシェルと医師である小林提樹の両者があって初めて実現したといえる。ヨハンナ・ヘンシェルは、何百年と福祉社会の経験をたどってきたドイツで働き、日本の福祉新興国の現実はすべて経験済みであった。7年間で128人の障害児を受け入れ、これを参考にして障害児通園事業が体制化され、全国で120か所も開設されるに至った。「つばめ会」は1977(昭和52)年3月をもって先駆的使命を果たし閉鎖した。

ヨハンナ・ヘンシェルはドイツでの経験から、子どものグループ編成の人数は6~7人に限り、健康児と一緒にして療育活動に当たった。今でいうノーマリゼーション、インクルージョンのさきがけである。

財団法人である島田療育園は、1963(昭和38)年11月1日に社会福祉法人として認可された。島田療育園を応援してくれる仲間も現れた。「拝啓池田総理大臣殿」と題した文を中央公論(1963年6月号)に発表した水上勉はその代表的な一人である(本誌2013年3月「時代を読む」参照)。その返事を中央公論(1963年7月号)に、総理に代わり内閣官房長官黒金泰美が書くという前代未聞の展開となった。

この二つの文章は、その後の日本の障害児福祉の流れを変えたといっても過言ではない。その後、秋山ちえ子、森繁久彌、伴淳三郎らにより「あゆみの箱」献金が始まった。また翌年には、遠矢善栄により「おぎゃー献金」運動が始められた。それらをきっかけとして、後の総理大臣となる佐藤栄作夫人や、官房長官や建設大臣などを歴任した橋本登美三郎夫人が、いろいろな形で寄付をしてくれた。糸賀一雄により滋賀にびわこ学園が設立され、「この子らを世の光に」という言葉は、世の中に障害児のあり方を問うた後世まで伝えられている代表的な言葉である。秋津療育園は、裁判所の調停委員をしていた草野熊吉によって1959(昭和34)年から借家に障害児を集め、夫婦で献身的に世話を始めたことから始まる。

さまざまな事業の展開

島田療育園の園内の定期的行事も徐々に増えてきた。開園まもなくから開始した「お誕生日会」や1963(昭和38)年6月から始めた「遠足」などである。1991(平成3)年10月からは、東京都重症心身障害児通所事業実施要綱に基づく重症心身障害児(者)デイケア事業を開始した。1992(平成4)年には外来部門を開始し、名称も島田療育センターと改称した。島田療育園を開設した当初は地元医師会から外来診療は認めず、と言われて入所事業のみに限定せざるを得なかった。時代が変わり、障害児に限って外来で診ることが許可されて、外来の開設が実現したものである。リハビリテーション部門は1983(昭和58)年に開始した。

障害者自立支援法の制定とその後の課題

2006(平成18)年10月には、障害の一元化を謳(うた)った障害者自立支援法が制定され、島田療育センターでも18歳以上の利用者は契約制度の導入となった。

46年前の1967(昭和42)年8月1日、児童福祉法の一部改正によりその法体系の中に重症心身障害児施設が位置づけられた。島田療育センターは開設以来、入所から退所まで一貫した医療・療育を行なってきた。しかし、障害者自立支援法制定により18歳でその根拠となる法律が二分されて、一貫した医療・療育が危機に晒(さら)された。

公立民間立の重症心身障害児施設が加盟する社団法人日本重症児福祉協会(2013年4月1日より公益社団法人日本重症心身障害福祉協会)は、今までのように児者一貫した医療・療育が保障されるように訴え続けた。厚生労働省と話し合いを続けて、重症心身障害児施設独自の児者一貫した法体系を作ってもらうことを真剣に訴え、そのような方向性も見えた時期もあったが、結局18歳未満は児童福祉法、18歳以上は障害者自立支援法に拠るところとなった。

2006(平成18)年の障害者自立支援法成立以降、日本の政治は大きく揺れ動いた。自民党政権から民主党政権へ移行し、昨年から再び自民党政権に戻り、それに伴って障害者自立支援法も大きな影響を受けてきた。同法の3年後の見直しの時も、民主党政権は障害者自立支援法自体の廃止をマニフェストで訴えていたため、同法廃止までの暫定的な「つなぎ法(通称)」として、民主党、公明党、自民党の有志議員で議員立法として成立させた。

2013(平成25)年4月から、「つなぎ法」を踏襲した形で、新たに障害者総合支援法として動き始めた。島田療育センターも児童福祉法に基づく医療型障害児入所施設と、障害者総合支援法に基づいた療養介護事業所として新たなスタートを切った。また本年度より、在宅の障害児者のために、従来より行なっているデイケアセンター業務のほかに放課後デイサービス事業を開始した。

2004(平成16)年9月からは、在宅訪問看護事業(現ライフケア島田あおぞら)を運営している。地域に開かれた島田療育センターとして、東京都からの委託を受けて、地域療育等支援事業として保育園、幼稚園や学童クラブでの障害児療育支援、近隣の施設へのリハビリテーションスタッフ等の派遣、障害児健診の援助等の幅広い活動を続けている。現在は法律上も、発達障害が我々の守備範囲となり、島田療育センターでもその対応に積極的に取り組んできている。今では受診者の受診までの待ち日数が長くなり、その対策に苦慮しているのが実情である。

日本の重症心身障害児者が4万人といわれ、そのうち入所できているのは約19、000人、残りは在宅で頑張っておられる方々である。その在宅の方々の重症化、高齢化、また保護者の高齢化が問題となってきており、その対策は喫緊の課題である。新生児集中治療室(NICU)からどのような手順で、安全に障害児を一般病棟、重症心身障害児施設、家庭に移していくのか、重症心身障害児施設だけでは解決できない難問が山積している。

(きみやさとし 島田療育センター院長)


【出典】

・島田療育センター編「愛はすべてをおおう」2―55頁、中央法規出版、2003年

・日本福音ルーテル教会・東教区ディアコニア委員会編「ディアコニアに生きて~ヨハンナ・ヘンシェルの足跡」1997年

・小沢 浩著「愛することからはじめよう―小林提樹と島田療育園の歩み―」大月書店、2011年

・津曲裕次監修、日本知的障害者福祉協会編「天地を拓く―知的障害福祉を築いた人物伝」200―218頁、2013年