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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年5月号

証言3.11その時から私は

東日本大震災から2年目を迎えて

佐久間桃子

私は週4日、「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」で相談事務をして働いている。私は6年前に頸髄を損傷し、車いす生活になった。障がいは、マヒによって手足が動かないこと、痛みや温度が分からないこと、体温調節ができないことなどがある。指を動かすこともできないが、自助具を使って食事やパソコン入力をし、職場には電動車いすで通い、通院リハビリと訪問看護を利用するため、毎週金曜日は休みをもらっている。障がいをもってから、1年間は地元福島県で入院生活を送り、2年半を静岡県伊東市にある頸髄損傷者専門のリハビリセンター(伊東重度障害者センター)で過ごした。

被災したのは、リハビリ生活を終え、福島に戻って3か月後のことだった。私の家の壁やスロープにもヒビが入るほどの大きく長い揺れで、私は車いすごと倒れそうになり、一緒に家にいた妹に押さえてもらい、ただただ揺れがおさまるのを待った。余震も続き、電気や水道も止まり、近くの小学校に避難したが、車いすで入ることは難しく、車中で2日間過ごした。ガソリン不足も続き、ヘルパーサービスも訪問看護もこのまま使えなかったらどうなるのだろうと、不安でとても怖くなったことを覚えている。

地震発生後すぐに、車内のラジオで原発事故のニュースを聞いた。大震災から1週間過ぎてからも、原発事故のニュースは日に日に深刻になっていき、サービスも使える状態ではなかった。私は3か月前までいた静岡県のリハビリセンターへ連絡をし、3月20日から1か月半を伊東市で過ごした。

大震災から2年目を迎えて、今困っていることは放射能に関することである。みなさんも同じだと思うのだが、原発事故があってから、外出することをためらってしまったり、雨が降ると憂鬱(ゆううつ)になってしまったり、食べ物にも気を遣ってストレスになっている。

特に、外出後に自宅に入る時の車いすのタイヤ拭きである。土や砂利は放射能が高いので、原発事故後は今まで以上にしっかりと拭き、床も掃除機や雑巾がけをするなど、タイヤと床の汚れを気にする生活が続いている。まだ小さい甥っ子が家に遊びに来ると、タイヤを触ったり床に寝転んだりするので気になり、1年後、3年後、10年後が不安になってしまう。

また、水道水の放射能は大丈夫だと言うのだが、私は最近まで水道水を飲まないようにしていた。今も、水、米や野菜を口にすることに不安があり、怖いと思ってしまう自分も原発も嫌になってしまう。その気持ちと同時に、原発があったからできていた生活、原発に頼っていた生活、放射能の怖さを知っていてつくった原発、人間がつくって人間が片付けられない原発って何なのか、いろんな想いがこみ上げてくる。

今年3月には、東電の除染の説明会が郡山市であり、私の父も近所のみんなも参加した。今、私の家の周りは0.7マイクロシーベルト、もっと高い所はたくさんある。除染後は0.3ほどになるという説明であったようだが、問題はその削った土の処理である。父も近所のみんなも除染はしたいけれど、除染した土を置く場所を確保できず、私の家は除染しない方向で進みそうだ。除染、除染と言うが、その後の処理について考えてもらわなければ、できるものもできないのだと思った。除染後の処理について良い方法はないかと思う。

大震災2年目を迎えて見えてきた問題点は、要援護者リストに関することである。その中のひとつは、災害時要援護者避難制度があることを知らない方、知っていても登録していない方がいることである。つい最近まで、その制度を知らない方がいた。私は震災のあった2011年に知ったが、今年まで登録していなかった。このような支援制度があると、もっと知ってもらえればと思いながらも、肝心な自分が登録していないことに気づいた。周りに目を向けてばかりで、自分のことは棚に上げていたと思い、意見する前に自分はどうかを考えるようになった。まず、私たち要援護者が、できる範囲で知ろうとする姿勢が大切なのだと思った。そして、この制度があることを知った時には、周りの方にも呼びかけ、積極的に登録していくことが、これからまた災害が起きた時のために必要になることだと思っている。

二つ目は、登録した情報の提供先についてである。災害時にどの範囲まで要援護者の情報を提供してくれるのか。今は、町内会、自主防衛組織、民生委員、消防団、消防署、警察署となっているが、今回のような災害時に提供先側が安否確認に動けない時などは、提供先と決められている人でなくても情報を提供してもらえればと思う。もちろん、個人情報なので判断がとても難しいが、災害時に支援に関わるためであれば…と思う。

東日本大震災から2年、一番大切なことは人と人の繋(つな)がりだと改めて感じさせられている。私が震災に合った時、私の家に近所のみんなが駆けつけてくれた。たまたま震災の日は妹が一緒にいたが、いつもは私ひとりで家にいる時間帯だということを、近所のみんなが知っていてくれたからだ。普段からの顏が見える人とのふれあい、繋がりが、どんな時にも大切なのだと思う。災害時に、行政機関が全く動けなくなってしまったら、最後は普段から顔を知っている人との繋がりで救われることが多くあると思う。気持ち的にも救われる。震災前も震災時も、今も、地域との繋がりを広げていくことが問題解決に繋がる大切なことだと思っている。

(さくまももこ JDF被災地障がい者支援センターふくしま)