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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年6月号

1000字提言

“当たり前”に教育が受けられるように

竹内哲哉

「なぜ、お金払ったの?」。ホストファミリーのジャックさんが私に問いかけた。「えっ?タクシーに乗ったらお金を払うんじゃ?」「ここでは障害児の学校への送迎は無料なんだ」。一介の留学生に対し、学校への送迎タクシーが手配され、しかも「タダ」。本当に驚いた。20年以上前のカナダ・バンクーバーでの話。他にも多くの車いすの学生がいて、同じようにスロープ付きのタクシーで学校に通い、エレベーターで教室に向かい授業を受けていた。カナダでは“当たり前”の風景なのだろうが、普通級で障害児をほとんど見たことがなかった私にとって、多数の障害児が同じ教室にいるのは鮮烈だった。

ここまできて話すのもおかしいが、私は車いすユーザーだ。3歳4か月の時、急性脊髄炎を患い下肢マヒになった。母は“立って歩く”ことにこだわった。というのは、当時、車いすでの普通校への入学は非常に困難だったからだ。折しも、私が小学校に入る1979年は養護学校の義務教育化がなされた年。「養護学校(現特別支援学校)で学べるようになるなら良いではないか」という流れがあった。母のスパルタ(?)もあって、1年8か月後に私は松葉杖でなら歩けるまでになった。その結果、何とか普通校に入学することができ、充実した学生生活を送ることができた。養護学校を否定するわけでは全くないが、もし、あの時、普通校に入学できていなければ、今の私はなかったかもしれない。

その陰で母の負担は大きかった。高校卒業までの12年間、私を学校に送迎してくれた。親として“当たり前”のことと受け止めていてくれたのかもしれないが、カナダでの体験を経て、私は日本の学校に対して疑問を持つようになった。「なぜ、日本では親の送り迎えが必要なのだろう」「なぜ、学校にエレベーターがないのだろう」

今では、立って歩けなくても普通校に通えるようになり、スロープやエレベーターが設置される学校も増えてきた。しかし、それはごく僅(わず)かで、希望する学校に入れるかは別だ。取材をすると、「付いているスロープは、障害児のためのものではなく、お年寄りの避難のためのもの」と応え、入学を拒否する学校もあると聞いた。設備がないので、学区を越えて通わなければならない障害児も少なくない。

「カナダのようになれ!」というのは、税制や社会事情が違う日本では無理だというのは承知している。ただ、少なくとも障害児が学びたい場所で学べ、両親に大きな負担を強いないというのは、“当たり前”であってほしい。教育の現場にも合理的配慮が求められるようになってきた今、設備はもちろんだが、必要な支援を“文言”から“生きたもの”に変えることを現場が考えてほしい。

(たけうちてつや NHKディレクター)