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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年6月号

文学やアートにおける日本の文化史

「精神科医療史」におけるアートの水脈
―「丘の上病院」という試み―

荒井裕樹

「精神科医療」への批判的視点を持ち続ける精神科医の森山公夫は、日本の「精神科医療史」を次のように振り返っている。いわく、西欧では「精神病者」に対する隔離主義と治療へのニヒリズムが19世紀後半からの100年という歳月をかけて出来上がったのに対し、日本はその100年を1960年代からの20年間に圧縮した形で経験したというのである(「精神医療の変革に向けて」吉田おさみ著『“狂気”からの反撃』所収1980年)。その急激な「近代化」の悲惨な帰結が、たとえば大熊一夫が『ルポ・精神病棟』(1970年)のなかで描き出したような「精神科医療」の姿だったのかもしれない。

日本の「精神科医療史」のなかに反省すべき闇が存在したことは否定できない。しかしながら、なかには真摯に患者を思い、わが身を顧みず尽力した医療者たちも存在したことを思うと、その歴史が闇一色に塗りつぶされたものだったとも断言しにくい。事実、1970年代頃からは、心ある医療者たちが従来の医療体質を反省し、改革に向けた取り組みをはじめることになる。本稿で紹介する「丘の上病院」も、その一つである。

1969年、都心のベッドタウンとして開発され始めた東京都八王子市の小山の上に、ホテルと見まがう瀟洒(しょうしゃ)な病院が開院した。それが「丘の上病院」である。現在では完全な住宅街となったその地も、当時は薄と雑木林が生い茂る静かな高台であった。患者一人ひとりに行き届いた看護を徹底するために、開院時の病床数はわずか55床。当時の「精神科病院」は通常200~300床なければ経営が成り立たないと言われ、なかには500床を超える病院も存在していたことを考えると、異例に小規模な病院だったことが分かる。

周知のとおり、日本は1960年代から高度経済成長期に突入する。国民の生活水準は急上昇し、便利さと豊かさを謳歌していくことになるのだが、その反面、経済活動の最前線に立つサラリーマンや、その夫を支える主婦たちの中に「ノイローゼ」や「神経症」を患う人々が急増することになる。「丘の上病院」の主たる通院者・入院者はこのような事情を有する人々であり、創設者自身「ノイローゼ病院」であることを自認していた。いわば戦後日本の輝かしい「成長」の裏側を見続けた病院だったと言えるだろう。

「丘の上病院」は、日本の「精神科医療史」のなかでも、極めて独創的な試みをした病院であったように思われる。たとえば、同院は日本で最も早い時期に「24時間完全開放制」を採用した病院の一つであった。当時は常識であった「塀」「檻」「鍵」はなく、玄関は常に開放され、病室は個室か少人数の部屋が中心であった。患者に渡された「入院の手引き」には「患者同士の恋愛は自由」とさえ書いてあったという点に、その徹底した「開放主義」への矜持が窺(うかが)える。

また、スポーツやアート活動など、レクリエーションを本格的に「心の治療」に導入した病院としても、日本で最も早い事例の一つに挙げられる(実は本稿が最も強調したいのもこの点である)。患者たちは病院に付設されたテニスコートで汗を流し、近くの河川敷にソフトボールの練習に出向いては、日が暮れるまでボールを追いかけていた。また「造形教室」(造形作家・安彦講平主宰)では、100号を超える油絵や、玄関ホールに据えられた巨大なタイル壁画、あるいは30分を超える長編影絵などの力作が制作されていた。夕食後にはデッサン教室や名画・名曲を鑑賞する芸術サロンなども開かれ、そこには勤務を終えた医師や看護師たちも加わり、医療者と患者との間に立場を超えた密な交流があったという。

ほかにも同院が特異であった点はいくつも挙げられる。通常の病院が機能性(死角が生まれず、医療者の動線を最小限に抑える)を重視して設計・建設されているのに対し、「丘の上病院」は医療者・患者ともに歩き回らなければ生活できない構造(いわゆる「バリアアリー」構造)をしていた。「病院」らしくない構造は、設計担当者が「入院患者が家族と記念撮影をする場所を作れなかったのが心残りだった」とこぼしたという点にも表れている。また患者が主体となって発行していた院内紙『Hill Top Times』には、入浴時間から食事のメニューに至るまで、患者対医療者の激しい「交渉」の様子も記録されている(時代柄もあり「全共闘」でならした患者も多かったようである)。

しかしながら、「完全開放」という理想を実現するためには、多くの弊害も生じたようである。心に問題を抱えた患者を「管理」「隔離」するのではなく、「人間」対「人間」として信頼関係を構築するために、医療者たちに強いられた努力は並大抵のものではなかったという。入院に関しても重症者を受け入れることが難しく、また、少人数の病室は病院の経営を圧迫し、差額ベッド代を徴収しなければならず、入院費は他院に比べてかなり高額であった。そのため生活保護の患者は受け入れられず、他の病院からは「丘の上病院は高所得の軽症患者しか受け入れない」との批判も寄せられた。しかし実際には、同院は常に経営に苦心していたという。

1995年、「丘の上病院」は多くの患者や職員たちに惜しまれつつ、その短い歴史の幕を閉じることになる。同院の歩みは、「完全開放」の病院を創るという崇高な理念と、苦しい経営や日々の職務の厳しさといった現実との間で生じる苦難と葛藤の連続であった。しかし、そこでは恵まれたスタッフ陣のもと、現在から見ても驚くほど前衛的な試みがなされていたことが窺える。その重要性に鑑(かんが)みて正確に表現すれば、「丘の上病院」は「新しいことを試みた病院」なのではなく、むしろ「病院自体が試みだった」とさえ言えるだろう。

残念ながら、「丘の上病院」という試みの特異さに比べて、同院の知名度は決して高くはない。「社会福祉史」や「精神科医療史」を専門に学ぶ人々の間にも、「丘の上病院」という名前はほとんど知られてはおらず、跡地には記念碑さえない。「丘の上病院」に勤めたレクリエーション担当の元職員は、同院の歴史を次のように振り返っている。

「丘の上病院の26年間の挑戦は、一見、人間の善性や自己治癒力、そして内在する可能性への無条件な希待にもとづく、極めてロマンティックな取り組みであったかのように言われることがある。」

現代社会のなかで一番欠落してしまったのは、もしかしたら、この「ロマン」なのかもしれない。福祉や教育という人間を扱う現場においても、数値化できる「成果」や、確実な「費用対効果」の見積もりを求められることが多くなってきた。それと並行して、信や義といった私的な感情に支えられていた関係性が居場所を失い、「専門性」や「資格」といった客観的な指標に支えられた関係性にとって代わられつつあり、いつしか私たちは、人間の「善性」「自己治癒力」「可能性」を無条件に信じてみようという態度(=「希待」)を失ってしまったのではないか。

本来、このような「ロマン」を培い、「人間」への信頼感を育むことこそ、アートが社会に対して果たし得る重要な役割なのである。「丘の上病院」は、本気でそれを成し遂げようとした。残念ながら、その試みは完結することはなかったが、しかし、その思想的水脈が完全に途絶えてしまったわけではない。1995年の閉院後、同院の「造形教室」は、同じ八王子市内の精神科病院「平川病院」に舞台を移し、その小さな(しかし貴重な)明かりを灯しつづけている。この「丘の上病院」から「平川病院」へと続く「造形教室」の試みは、「精神科病院」を舞台にアートで心を癒そうとした希有な試みとして、しっかりと記憶されてよいだろう。

(本稿は、「丘の上病院」元職員・元入院者の方々からいただいた貴重な証言をもとに作成しました。ご協力くださった皆様に、心より感謝申し上げます。)

(あらいゆうき 東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員)