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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年6月号

証言3.11その時から私は

震災から2年、仕事と住まいの不安を抱えて

熊谷仁

東日本大震災の時、私は失職しており、石巻の実家にいた。買い物から帰ってきて整理をしようとしていたところ、あの地震が来た。外では防災無線でサイレンがなり、大津波警報が出たので避難するようにとの指示があった。

家は海岸から700メートルしか離れていないところで、いち早く逃げるしかないので、家族3人(父、母、私)で、車でイオン石巻に避難した。そこで3日間車上生活をして、食料はイオンから提供していただく物に頼った。

3日目にイオンの食料が底をつき、ガソリンもいつまで持つか分からないので、石巻市立蛇田中学校に避難することにした。39日間避難所にいて、避難所ではノロウイルスに感染したりしたが、家族が一緒だったため避難所生活は助かった。でも今考えると、トイレに一人で行けなかったのはとても辛いことだった。

時間が経つにつれていろいろと情報が入ってくるようになり、家がどんな状態になっているのか分かってきた。1階部分はすっかり水をかぶったが、2階部分は無事のようだった。基礎も傾いていたので修復はできず、取り壊すことになった。

そのような時に、宮城県視覚障害者福祉協会からIT関係の仕事の誘いがあり、一人で仙台に行くことになった。アパートもなんとか探していただいて、何も持たずに仙台に来たのだが、即入居できた。そして、借り上げ申請をした。

家族は、第二次避難所の蔵王温泉に移った。それから半年後、父親が避難所で亡くなった。一人残った母親を石巻の仮設住宅に入居させた。

2012年の3月末で、いただいていた仕事の契約が満期となり、また失職状態となった。できれば、IT関係の仕事に就きたいという思いはあったが、今の東北では、そのような仕事はない。あったとしても、時給700円で週6時間というアルバイトのような仕事しかなく、もともと蓄えも乏しい状態だったので、食べていくには厳しい生活になった。

ハローワークに行ってもマッサージ以外の求人は出ていないし、担当の職員も、視覚障害者は、マッサージ以外の仕事は無いと明言していたくらいだった。

しかし、このままではいられないので、いくつかマッサージの仕事の面接を受けてみたものの、マッサージの仕事は、ブランクがあったからだと思うのだが、不採用だった。鬱(うつ)状態のようになってしまい半年間、ほとんど寝て過ごした。

ハローワークは、当てにならないので、視覚支援学校の先生にも相談し、ハローワークからは、紹介状をいただくだけにした。

9月になって、ようやく、訪問マッサージの仕事に就くことができた。震災後、今の東北は仕事そのものがないのでぜいたくはいえないのだが、正社員とはいっても、健康保険は無いし、厚生年金も無しという条件である。しかも、給料はいただいているが、仕事そのものの量が少ない。だからといって、自分から辞めるつもりはない。それに、仮設住宅にボランティアで入っているマッサージは、大半が無資格者のようなので、仕事が脅かされているようにも思える。今後、いつまでこういう状態が続いていくか不安である。

それから、現在住んでいるところは、民間賃貸の借り上げで、みなし仮設となっている。あと1年間は住むことができるようだが、復興住宅への移動を勧められている。しかし、復興住宅が、まちから離れたところだったりしたら、一人での外出ができなくなってしまう。しかも私は、石巻から仙台に出てきたのが震災後だから、復興住宅に入れるのは、後の方になってしまうだろう。

石巻に帰るという選択もあるのだが、仙台でさえ仕事を探すのが大変なのに、石巻で仕事が見つかるとは思えない。今は、仙台にとどまるのがいいと思っている。このように、先が見えないことが多いので不安ばかりである。

(くまがいまさし 公益財団法人宮城県視覚障害者福祉協会会員)