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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年7月号

ワールドナウ

夢を生きるブラジル当事者たち
~DPI日本会議の国際支援・ブラジルたんぽぽプロジェクト~

盛上真美

はじめに

今年3月、18年の海外生活を終えてブラジルから帰国した。今号ではブラジルの当事者運動とその活動の経緯についてご報告させていただくのだが、私のブラジルでの活動は、それ以前の「障害」分野との出合い、「障害と開発」の経験へと導いてくれた「当事者リーダーとの出会い」が基礎となり、今日まで(そしてこれらかも)自分の指針となっている「彼らからの教え」があったからこそで、先に彼らとの出会いについて紹介しておきたい。

当事者リーダーとの出会い

現ルーテル学院大学社会福祉学科の学生時、アメリカ障害者の権利擁護運動に携わっていたジャスティン・淑子ダートご夫妻を紹介された。ダート氏はご自身も障害をもち、アメリカ障害者差別禁止法成立に多大な貢献をされた精力的な運動家であったことは日本でもよく知られている。私はダートご夫妻の下で10年以上にもわたって、差別禁止法を弱めようとするさまざまな圧力や政策に対抗する運動や障害者雇用促進法の強化等々、多くの政策と運動の連携を図った活動のお手伝いをさせていただく機会に恵まれた。

ギャローデット大学院(世界唯一のろう者のための大学)卒業後は、ダート氏を通じて知り合ったジュディ・ヒューマン氏の下で、世界銀行初の【障害と開発】という部署でさまざまな開発課題の障害に関するアクセシビリティーの規定の導入や、開発課題への障害のメインストリーム化を図るといった、当時(2002)はまだまだ【異質】と捉えられていた開発分野において、画期的な取り組みをしたヒューマン氏率いる「障害と開発」チームの一員として仕事をさせていただく貴重な機会に恵まれた。

世界に知られる運動家であるお二人から何を教えられたか。残念だが、そのすべてはとても書ききれないが、彼らの当事者リーダーとしての歩み、彼ら自身の「生き様」そのものが私の心に、そして私がどう生きたいか、その指針となるまでに強く焼きついた。

ダート氏の多くの教えの一つにご夫妻が実践された「LIVE THE DREAM」というメッセージがある。それは「夢を持って生きよ」と言うメッセージにとどまらず、諦(あきら)めず「やればできる」と自分を信じること、「努力すればもっとできる」と自分を奮い立たせることだと彼らの人生を懸けた運動への取り組みの姿勢から教えられた。そして、私が自分を信じられないでいたにもかかわらず、私が自分を信じられる人になるために、ダート氏ご自身が私を信じ、愛してくれた。この経験が私にとって今でも大きな支えとなっている。

ブラジルろう者との出会い

私が派遣されたブラジル東北部に位置するレシフェ市は、観光客で賑わうビーチとスラム街(ファベーラ)が隣合わせの街で、私はホームステイをしながら地域のろう者が集まる場所へと出かけた。

ろう者のエンパワメントにはろう者のロールモデルが不可欠であると知りつつ、聴者の自分が入っていくことへの後ろめたさも感じながら、まずは彼らの手話を習おうと毎日通った。ブラジルろう者は全く何も分からない私に辛抱強く手話(LIBRAS)と、ポルトガル語も教えてくれた。取りとめもない話をしながら、毎日習うことがとても新鮮で、慣れるにつれて彼らがどんなことに関心があるのか、少しずつ読み取れるようになってきた。

聴者である自分に何ができるのか、それを探りたくて必死に会話を続けているうちに、この東北部は南部に比べると組織としての活動はそれほど活発ではなかったが、当事者自身の問題意識つまり「何に不満を感じているか」「何を問題だと感じているか」が、想像以上に彼らの中にはっきりとあることが見えてきた。

そして、それらの課題・問題に対して彼らから明確な答えが返ってきた。たとえば、「通訳者が少ない」という問題に対して「手話通訳を養成する講座が必要だ」「質の良い通訳者を育てるには単に手話講習会をしているだけではだめだ」「いや、通訳者を分野別に教育する必要がある」などなど、当事者がとても活発な意見を持ち合っていた。「やりたいことは山ほどある。でもそれらをどうしたら形にできるのか、プロジェクトにしたいけどその方法が分からない」。そんな彼らのやり取りを見ていて「じゃあ、どうやったらプロジェクトを作れるか、勉強会をやってみようか?」と提案をして、第1回目の勉強会を企画した。でも集まったのはたったの3人。少しがっかりもしたが、1人でもやりたい!という人がいたらやるんだ!という思いで勉強会を続けた。

ブラジル文化

ブラジルと日本とでは、地球の裏側であるほどにその文化もかなり異なる。楽しく、楽観的な思考は受け入れやすい部分でもあるのだが、一番辛かったのは「時間の感覚」。ブラジルタイムといえば、遅刻は当たり前。会議等の予定開始時間に家を出る、という人も少なくない。

アメリカでも「デフタイム」があると言われるが、ブラジルのデフタイムは大幅に遅刻か、下手するとドタキャンもしばしば。しかも、ろう者は電話連絡の方法もないから待ちぼうけは当たり前。「連絡もなしに待たされる」ことが私には一番苦痛であり、自分の忍耐力を極限まで試されたような気になった。そしてとうとう、炎天下の中3時間待たされた揚げ句、爆発!した。「遅れてもいい、キャンセルしてもいい、とにかく連絡だけはして!」と懇願した。今となって思えば、このようなことを繰り返しながら「お互いの限界」(お互いの爆発要因?)を探りながらの関係づくりがすでに始まっていたのかもしれない。

当事者だからこそできる啓発手法の確立

勉強会では、習いたてのポルトガル語と手話で教材を準備した。どうすればもっと分かりやすく伝えられるか思考錯誤の毎日だったが、一つのパターンを当事者が見せてくれた。それは私が提供した教材や情報をまず誰か一人でも理解をしたら、次はその人がそれを手話にして他のメンバーに伝える。そうして理解する人が増えてきたら、今度は、私の教材・情報をより分かりやすいイラストにしてくれたメンバーがいた。

その時、自分の役割は「ろう者に教えること」ではなく、「彼らは必要な情報が取得できれば、後は彼ら自身で他のろう者にきちんと教えられる。聴者の自分よりもはるかに明確な情報提供の術を持っている」ということに気づかされた。通訳者でもなく、先生でもない、必要な情報を集めてなるべく分かりやすく提供し、一人でも多くの当事者がろう文化の中で培ってきた豊かなコミュニケーション能力を発揮できる「機会」を増やすことが自分の役割なのではないかと感じるようになった。

「新しい知識をまず特定のろう者が習得し、ろう者同士で情報を伝える」この手法は題材がなんであろうが、ろう者のコミュニティーにおける啓発活動に有効であることを彼ら当事者が示してくれた。これを基礎に、HIV/AIDS予防啓発プロジェクト(たんぽぽプロジェクト)を立案し、DPI日本会議が当事者支援のサポートに入り、JICA草の根事業がその資金を支援して、2008年10月から4年半にわたってその活動を市から州へと広げ、その後、ブラジル北部・東北部へと拡大展開した。

当事者主体性の事業展開

事業開始当初、関係機関は通訳者以外すべてろう者で構成されたプロジェクトチーム編成に不安を拭えない様子であったが、周囲の偏見や懸念を一つ一つ克服し、当事者自身が「自分たちだからこそできること」を身を持って示してきた。遠く離れた町に住む当事者の苦悩もまた「当事者同士」だから理解でき、共有できた。当事者主体の事業展開は、地元の政府機関からもその効果を高く評価され、今後の支援を約束された。

さいごに

たんぽぽプロジェクトのメンバーが自らを、そしてお互いをエンパワーしていく様は、真に「LIVE THE DREAM」の実現を目の当たりにしているかのようだ。たんぽぽの当事者メンバーは確かに夢を生きている。

(もりがみまさみ 全国自立生活センター協議会)