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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年9月号

感謝を捧げたい支援活動の数々

板山賢治

本特集は、私の提案によるものである。「橋を渡る時には橋を架けた人の苦労を、井戸水を飲む時には井戸を掘った人のことを思え」と言うが、最近、障害者運動の歴史を振り返ると、その思いを強くすることが多く、多方面の方々に感謝の意を表するべきではないかという思いが、この提案の動機ともなっている。

障害者は長い間、差別と偏見の中で生きていることもあり「感謝」の意を素直に表現することが下手だとも言われている。しかし、国連の「障害者権利条約」の批准に向けて大きくレベルアップしようとしている日本の障害者運動は、決してそんな低水準にあってはならないとも考えた次第である。

障害者支援活動の4つの流れ

戦後の障害者運動の展開と支援活動には、大きくは4つの流れがある。

第一は、戦後「国民皆貧」社会における先駆的・個別的活動への助成である。昭和23年に始まるヘレン・ケラー女史の来日招聘を含む全国キャラバンの展開は、盲人福祉法制定運動から身体障害者福祉法制定に至る「日本盲人会連合」を中心とする障害者運動への毎日新聞社の画期的な支援活動であった。

第二は、「白衣の傷痍軍人」に象徴される占領下の旧軍人の悲惨な状態改善への取り組みは、「日本傷痍軍人会」活動への各方面からの支援となったが、GHQとの関係もあり、その内容はあまり公開されてはいなかった。「社会福祉法人友愛十字会」は、ハワイ在住邦人を中心とする敗戦日本同胞への支援として始められた歴史的意味を有している。

第三は、障害種別、個別熱心な障害者活動への支援であり、大学病院の患者会、医師、研究者等を中心に活動を展開し、多くの有志、善意の助成活動が実現している。

第四は、「総合的、共通的活動」への助成である。運動課題が大きく、障害種別の関係団体のみの運動ではどうにもならない状況が生まれてきたのである。昭和35年頃の「精神薄弱者福祉法制定運動」「国民年金法制定運動」であり、各障害者に共通する課題であった。とりわけ昭和45年の「心身障害者対策基本法」制定をめぐる運動の展開は、日本の助成活動に大きな変革をもたらした。

そして昭和56年「国際障害者年(IYDP)」を迎え、これを成功させようとする当事者団体の大同団結が実現する。日本の障害者運動も、障害の種別・主義主張を越えて広範多岐にわたる国内外の動向への対応を必要とした。また、関係方面からの支援活動も効果的な工夫と対応を迫られたのである。特に、受益者サイドの改革を強く印象づけたのは、「心身障害児関係13団体」の総合結集体の実現である。昭和45年には「全国心身障害児福祉財団」に関係16団体が結集した。

国際障害者年に続き「国連・障害者の十年(1983~1992)」「アジア太平洋障害者の十年(1993~2002)」へと展開するのだが、筆者は、この20年余、常に公私の立場から企画、財務を担当し続けたので、その経緯を知ることができた。

なお、国際障害者年日本推進協議会(以下、推進協、現日本障害者協議会、以下、JD)に関しては、発足当時は今泉事務局長、日本肢体不自由児協会(以下、日肢協)の今野総務部長、日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハ協)の玉木事務局長が中心となられたように思う。

印象に残る募金活動と日本IBM社の支援

一つは、「天皇基金」の創設である。私が直接、リハ協および推進協の窓口となって携わった募金活動の一つに「聖壽八十歳記念」と銘打っての「天皇基金」の創設がある。きっかけは、昭和55年夏頃の宮内庁からの一本の電話であった。「国際障害者年のこれからに深く心を寄せられる天皇陛下は“満八十歳記念”にあたりご下賜金を賜わる」との趣旨だった。

かねて、リハ協を障害者運動の拠点にと考え、その財政基盤の確立に腐心していた私は、山下社会局長(当時)と相談のうえ「従来のように地方の施設にお金を分配するのではなく、この機会に基金創設を」と考え、宮内庁に協議したところ、「使い道は自由に」とのお言葉。当時の村山厚生大臣の指示も得て、永野重雄委員長を中心とする募金活動を展開、経団連の協力をも得て、約9億円を獲得したのであった。

第二は、日本IBM株式会社の積極的協力の申し出である。リハ協が民間活動の拠点となってほしいという私の深い願いをどこからか聴かれた、当時の伊藤総務担当重役は、「何が必要か」と端的に質問された。広範多岐にわたるわが国の障害種別の各団体、行政機関等に普遍的に読んでもらえる「広報誌」の刊行を実現したいと答えたところ、「社として3年間、年間2000万円の資金援助を約束する。なお、社員1名を研修のため派遣する」という望外なご回答。今日(こんにち)「ノーマライゼーション」誌(当時は「障害者の福祉」)があるのは、日本IBM社の支援によるものである。

第三は、「『アジア太平洋障害者の十年』キャンペーン’93第1回国際NGO会議(沖縄会議)」の開催である。

「十年」のスタートにあたり、沖縄で記念会議をという地元の熱意、とりわけ山城栄盛代表の熱意による開催であったが、17か国1,600人の参加の下、予想外の盛り上がりを見せたが、ほとんど地元資金でまかなわれるという結果となり、今も記憶に残る。

そして終わりに、昭和54年からのリハ協および推進協スタート時における日肢協、調常務を中心とする東京コロニーの利害を超えた理解と協力であった。当時の各位のご苦労の数々は、今も心に残る。これらの団体と厚生省(当時)という「公私協力」なくしては、IYDPを乗り切り、今日に至ることは不可能だったと断じてもよい。

ところで最近、特に助成財団の「特別な意志をもった」「継続的助成」が見事な成果を上げている点が目につく。一つは、「キリン福祉財団」が始められた「自立生活運動」の育成を目指す助成であり、第二は、「ヤマト福祉財団」が創設された「障害者小規模作業所」に対する助成事業であり、第三に、「損保ジャパン記念財団」「ヤマト福祉財団」「キリン福祉財団」等の共同助成による日本障害フォーラム(JDF)への「国連関係活動助成」事業である。こうした支援活動の行方に注目したい。

おわりに

私の手許に、最近寄せられた老女性運動家からの1通の便りがある。『…(略)キリン福祉財団設立以来30年、継続してご支援頂き、今日がある「復生あせび会」です。…(略)時代のニーズにあった事業をと考えても、今の私にはその力はありません。…(略)とても寂しいですけれど、「辞退します」…略』。キリン福祉財団の特別な配慮により、難病問題が陽の目をみない時代から、その先駆性に着目されて助成を続け育成された一つの運動体の例である。

日本各地には、こうした事例が数多く存在することを承知のうえ、IYDP前後から私の関わった助成活動を要約し、心からの感謝の意を伝えた次第である。

なお、心ならずも病中口述筆記のため、不十分な主旨説明、総論となり、忘失、遺漏の数々のお許しを願いたい。

(いたやまけんじ 元厚生省社会局更生課長、元俗風会理事長、元日本障害者リハビリテーション協会副会長)