音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年9月号

1000字提言

福祉事業の進展と社会福祉の後退

竹村利道

それはただの杞憂に過ぎないのであればそれに越したことは無いと思いながら、ほぼ確信的に危惧を抱いている。

規制緩和によって福祉事業がたくさん生まれた。かつて障害のある人の生活支援のためのサービス調整に四苦八苦していた時代からは隔世の感だ。国の財政責任は明確化され、予算の枠内での裁量的経費からサービス利用の実績に応じ、補正を組んででも負担する義務的経費となり福祉事業の安定供給体制が整った。それは紛れもなく障害者福祉の前進であり、諸手(もろて)を挙げて喜ぶべきことであることは間違いない。

ただ、多様なサービスが生まれ、多彩な事業者がそれを提供することが日常となるにつれ思うことがある。それは「社会福祉は無くなってしまったのではないか」ということだ。自身、報酬が伴う事業しか考えていないことに気が付きハッとする。長く福祉業界でビジネス感覚の必要性が問われてきたが、それは報酬を得られることを行うという狭義な意味ではなかったはずだ。

かつて福祉の先人たちは、制度にあるから、報酬が得られるからと、業として福祉に携わったのではなく、人として状況を憂い、熱い思いで知恵を絞り方法を編み出し、試行錯誤しながら支援を繰り返してきたはずだ。介護負担を軽減しなければの思いがレスパイトを生み、移動のためにリフト車を開発し、働くを叶えるために手作りの作業所を始めたりと。その一つ一つの実践は、時を経て形となり制度となって今につながっている。さらに、資源の乏しい中でなんとかしなければの思いは必然的に住民を巻き込むことにつながり、福祉がそれを仕事とした者だけにとどまらない広がりとなることも少なくなかった。

社会福祉とは、制度の有無にかかわらず、知ってしまった実情を放置できないという、居ても立ってもいられないマインドを持った人間が取り組む、どこまでも終わらない行動なのだと思う。その実践の中で汎用化されるべき取り組みは、新たなサービスとして確立され、各地に広がることだろう。制度に無いからと諦めず力を借りる地域住民の参画は、啓発などというイベントを不要にするほどにノーマライゼーションに近づけることだろう。

福祉の“福”は豊かさを、“祉”はコミュニティを意味する。そのために福祉事業者ではなく、福祉家としてのひたむきさが必要なのだと、今こそ認識したい。飽食ともいうべきこのサービス大供給時代に。

(たけむらとしみち 特定非営利活動法人ワークスみらい高知代表)