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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年2月号

文学やアートにおける日本の文化史

鬼と山と障害者

関義男

2月3日は節分、昔から季節の節目には悪鬼が出でくると言われ、豆まきが行われてきた。かつては「鬼は外、福は内」の声がどの家からも聞こえてきたものだが、最近はあまり聞かれなくなってしまった。

鬼は冬の季節に家の中に棲(す)みつくといわれる。立春を迎えるにあたり、豆に「魔滅(まめ)」の意味をもたせた豆撒(ま)きで鬼を一掃し、家中が福で満たされることは良い事に違いない。

しかし、ふと疑問が湧く。追い出された鬼は何処(どこ)へ行ってしまうのだろう。野外をあてもなく流浪しているわけではあるまい。昔から鬼は山に隠れ棲むと伝えられるが、しばし山に身を潜めているのだろうか。鬼は人を求めて再び山から下りてくる。追われた鬼は哀しく寂しいのだ。そして唐突な想像をしてしまう。追われた鬼の姿になぜか障害を持つが故に疎外されるものの影が重なりあってしまうのである。しかしこの記述については後回しにして、先に全く別の話をしたい。

数年前、私はある旅行会社が企画した視覚障害者トレッキングツアーに便乗してネパールヒマラヤへ行った。その時、飛行機の中で座席を隣りあわせた視覚障害者が次のような話をしてくれた。

「私のような視覚を失った者がなんでヒマラヤなんかへ行くのかと疑問に思うでしょう。山に登っても見えないのに何が面白いのかと思うでしょう。でもわかるんですよ、晴眼者と全く同じとは言わないが、そこでなくてはならないものがわかるんですよ…」

彼らはボランティアの援助でヒマラヤの小ピークに登った。帰国前夜の野外パーティでは美しい民俗衣装を着飾った娘たちと手をつないで踊り、数々の郷土料理を楽しんだ。笑いの絶えない楽しい高揚した雰囲気に満たされていた。「ピークの頂上に立った時は感動しました。風、空気の匂い、音、ヒマラヤの雄大さ、日本の山との違いがはっきり判(わか)るのです」と異口同音に語る彼らの満足感にあふれた表情は、私を十分に納得させる力があった。

現代の山はレクリエーション、あるいは癒しの場として、自己の可能性を確かめる場として万人に開かれている。汗を流して登り、山頂に至った時の喜びや達成感は、万人共通のものだろう。両足を失った人や難病の人等、心身にハンディのある人の登山が新聞紙上に載り、私たちは鼓舞されることがある。

水上勉の作品に、教室の中では萎縮している障害児が山に行くと蘇(よみがえ)ったように行動して他の児童にない能力を発揮する話がある。

山には不思議な力がある。これからの時代、障害者と山~大自然との関係は一層積極的に、その活用を考えてもよいのではないか。

近代登山の思想がヨーロッパからもたらされる以前の山と人との関係はどうだったのだろう。人が山に入ることは生活の糧や資源を得るのが目的であり、他に目的があるとすれば信仰の対象としてであった。里山の奥にある峨々たる山々は、神々または魔が棲む異界として一般人の決して入らぬ区域であった。郷土の昔話には、姥捨(うばすて)話や人が山の魔物に浚(さら)われてしまう暗く恐ろしい話が多い。そして山は不都合を背負った人たちの逃げ場であり、隠れ棲む所ともなっていた。

宮本常一(民俗学)著『山に生きる人々』に、四国の山道でハンセン病に罹患した老女にに出会ったという記述がある。彼は老女に「人里に下りずになにがしという目的地へ行く道はないか」と尋ねられた。老女は「こういう業病で人の歩く道をまともに歩けず、こういう道を歩いて来たが、四国には自分のような業病の者が多く、そうゆう者のみ通る道があって…‥」と語る。著者が里でその話をすると農家の人は、「この山中にはカッタイ道というのがあって、カッタイの人はそういう道を行き来している」と言う。また阿波祖谷山(あわいややま)の民家で「昔はカッタイ道だけを歩いても四国八十八カ所を歩くことができた」という話を聞く。しかし、それは人々の噂だけで現実にあるかどうか確認できなかったという。

この記述は衝撃的だが、人前に姿を晒(さら)すのを嫌って山奥に隠れ住むという類似話は、郷土の昔話や文学作品に見ることがある。

古事記にも出てくる葛城山の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)は国つ神として強大な力を持っていたが、面貌があまりにも醜かったために昼は山に隠れ、夜しか仕事をしなかったという伝説がある。

羽黒山修験の霊場の開祖は崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子・蜂子皇子(はちこのおうじ)と伝えられている。皇子は口が耳元まで裂けて、狼にも似た怪異な面貌であったが故に皇位からはずされたが、熊野の八咫烏(やたがらす)に導かれて人跡まれな羽黒山に至ったという伝説上の人物である。羽黒修験にまつわる伝説の成立過程に興味をそそられる。

花田春兆氏が主催する肢体不自由者文芸同人「しののめ」月例会で、ある日突然「鬼」が話題になった。日本の古典文学の中の障害者を探っていくうちに、醜い~怖い~人里から追われる~山……の連想から「鬼」が導き出されたのである。

『今昔物語』に描かれる鬼は、京都の橋や門の近くにあるらしい異界から人間世界に突如現れて、人々に害をなすというものだが、日本各地に残る鬼伝説では、鬼は山に隠れ棲み、時々人里に下りてくるという話が多い。

たとえば北の山では、岩木山がアソベの森と呼ばれていた頃二匹の鬼が棲んでいたという伝説。岩木山にはもう一つ別の話があって、支峰の餓鬼山に大人(おおひと)と呼ばれる鬼が棲み、この鬼は里人の開墾を手伝ったが、里人を信じない、里人に姿を見せてはならないという掟(おきて)があったという伝説。

北上山地の早池峰山(はやちねさん)の鬼女(山姥)伝説、岩手山の鬼伝説。これらの鬼は常日頃は山に隠れ棲み、里へ下りてきて里人に災いをもたらした。

秋田男鹿半島の「なまはげ」伝説の鬼は眼光鬼、首人鬼、押領鬼の三鬼で、神の使者でありながら、闇の中で活動する怪物で、不意に里へ現れては女(おんな)子供(こども)を浚って喰うので恐れられた。

本州を西へ下って、里人を悩ませた鬼伝説で名高いのが丹後の大江山の酒顛童子(しゅてんどうじ)伝説。

岡山県吉備の鬼伝説では、垂仁(すいにん)天皇の頃、温蘿(うら)という名の鬼が山城を築き、西国から都へ送る物資や、里の婦女子を略奪するので非常に恐れられたという。

鬼の姿を描写するのに、身長一丈四尺、両目爛々として虎狼のごとく、鬚髪(しゅはつ)は蓬々(ぼうぼう)とし膂力(りょりょく)絶倫、剽悍(ひょうかん)凶悪等々は概ね各地の鬼に共通する表現だ。鬼の角や牙は、牛頭(ごず)を重ね合わせて凶暴さを誇張したものだろう。

北海道アイヌの伝説にある魔神、魔王も本州の鬼と共通する。岩手の羅せつ、安達ケ原の鬼婆や戸隠山の鬼女、鈴鹿山の大だけ丸という名の鬼等々、南端の沖縄那覇市の鬼伝説まで、さらに『風土記』や『伊勢物語』『太平記』等の古典文学に出てくる鬼まで加えれば、とても限られた紙面では取り上げきれない。

このように人々に語り伝えられ書物に描かれる数多くの鬼伝説を俯瞰すると、なぜか私たち人間と異なる鬼族とでもいうような種族がいるような気がしてくる。しかしもとより鬼族などいるはずはなく、鬼伝説の詳細を追っていくと、人が鬼になる、人が鬼をつくり出すという実像が見えてくる。

昔、大和朝廷と戦って負けることがなかった蝦夷(えみし)の英雄アテルイが騙されて処刑された後、一族は山奥に逃れ隠忍(おに)になったという話も鬼伝説の一つ。戸隠山の鬼女の前身は都の官女だった。吉備の山に棲み着いた温羅という鬼は、かつては百済(くだら)の皇子だった。時の権力に追われた人、差別され疎外され迫害や虐待等々、山に逃れざるを得なかった人が獣同然の生活を続ければ気も荒み、生きるためには人里に下りて略奪をすることも辞さなくなる。婦女子を誘拐し、時には人を殺す悪逆非道が常態化し、憎悪、怨念、憤怒、復讐の負の感情に支配された鬼となっていくのだろう。数ある伝説の中には心身にハンディを背負っているがために鬼にされた事例があるかもしれない。確証のない想像と思いつつも、全く無いとも言い切れない。

飛騨の鬼伝説、「両面宿儺(すくな)」は二体結合の異形の怪物で里人に恐れられ退治されたが、同時に豊作をもたらす鬼神として崇められた。宿儺も人であり、結合双生児の姿で生まれたために山へ放逐され鬼になったのだろう。

伝説には人々に恵みをもたらす鬼の話も少なくない。そして鬼は守り神にもなる。しかし、多くの鬼たちは外形の怪異さだけで悪とされ「鬼は外」で追われる運命を背負う。そのことに限りない哀れさをおぼえてしまうのだ。

(せきよしお フリーライター、しののめ同人)


(写真は京都の茶わん坂で筆者撮影)
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