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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年2月号

証言3.11その時から私は

3.11その時から…

佐々木孝宣

私と妻には視覚障害があり一人息子は当時中学2年生。

平成23年3月11日。午後のひととき私と妻は、自宅でテレビを見ながらくつろいでいた。すると、突然ギシギシガタガタグラグラ家の中のあらゆるものが音を立てて動き出した。何かにつかまらないと立っていることができない。これまでに経験したことのない大きな揺れだ。天井まで落ちてきそうだ。「これはヤバイ」身の危険を感じ、あわてて治療室のベッドの下にもぐり伏せた。「これでもか。これでもか」と追い打ちをかけるかのように大きな揺れはしばらく続いていた。

ようやく収まったかなと思い、家の中を恐る恐る歩いてみると茶の間は、本棚やサイドボードの中の物が足の踏み場のないほど散乱していた。台所の電子レンジや炊飯器は、風呂場の中に投げ出されていた。玄関に飾ってあったいくつかの鉢植えも滑り落ち、狭い出入り口を塞いでいた。「佐々木さん佐々木さん。大丈夫?聞こえる?」と言う近所の人たちの声。ドアを開けてもらい、ゆっくりゆっくり誘導してもらいながら、やっとの思いで家の外に出ることができた。寒さと恐怖から胸はドキドキ、足はがくがく、体全体が小刻みに震えていた。近くに住んでいる姉も心配して、車で駆けつけてくれた。

周りの状況をいろいろ教えてもらった。道路には亀裂が走り、陥没して段差ができている。建物は屋根裏が落とされ、窓ガラスも割れている。ブロック塀は崩れ、交通の妨げになっているなど、地震により見慣れた町並みが一転してしまったらしい。まるで悪夢を見ているような信じられない出来事だ。私たちの無事を確認して姉も安心したらしく、いったん自宅へ戻っていった。

余震の続く中、妻は玄関だけは通れるようにと壊れた植木鉢、散らばった土、植物を片付けていた。息子は卒業式で、学校が早く終わったので、午後は友達と電車で浪江町に出かけていた。電話がなかなか繋がらず、ようやく連絡が取れたのは、暗くなってからのことだった。友達のお父さんが車で迎えに行ってくれた。

近所の人の好意で、息子が帰ってくるまでプレハブ小屋で待たせてもらうことにした。夜遅くに息子と合流。ライフラインが遮断され、余震も続いていた。安全を配慮し、姉の家族と一緒に近くの健康増進センターに避難した。避難所にはたくさんの人が集まっていた。津波で家が流され行方不明者がいるなど、さまざまな声が耳に飛びこんできた。被害は、かなり大きいようだ。気持ちは動揺していた。カンパンやコロッケなどの配給があったが、あまり食欲がない。座布団を並べて横になる。信じられない出来事が頭の中をかけめぐり眠れなかった。

朝6時頃、「原発が危険だから川内村に避難するように」と指示があった。着の身着のまま毛布1枚と枕をかかえ、知人に手をひかれ車に便乗させてもらった。町民が一斉に移動を開始したので車が渋滞し、なかなか進まない。途中トイレに行きたくなり、車を降りた。トンネルの中を必死で歩き、道路脇に出た。足元にはまだ雪が残っていた。お昼頃やっと川内小学校に到着。廊下に毛布をひき、腰を下ろした。お尻が冷え体が寒い。しばらくしておにぎりが一つずつ配られた。お腹が空いていたので、すぐに食べた。でも満足できなかった。

テレビでは、原発事故が放送されていた。放射能が建屋の外にもれだしているらしい。屋外に出ないよう指示があった。子どもは、ヨウ素剤を飲むように勧められた。自主的に避難所を去る人もでてきた。姉と相談し、いわき市好間の知人宅に移動した。今度は、水素爆発が起きたらしい。少しでも放射能から離れたほうがいいと言われ、翌日いわき市勿来の知人宅へ、そして川崎市、横浜市と知人宅を転々とした。しかし、詳しい情報は入ってこなかった。子どもの学校のことも気になっていた。

自宅を離れてから2週間が近く経った頃、富岡町役場がある郡山市のビッグパレットの避難所に移った。ここでの生活は、決して楽ではなかった。食べ物や飲み物は運んでもらえるが、トイレは、大勢の人の中をかき分けるようにして行かなければならず、誰かの手を借りなければ一人では歩けない。姉や息子がいる時は助かったが、妻と二人の時は何もできない。家族のプライバシーが保たれないことも悩みだ。食事時には、わずか1メートル高さのダンボ―ル越しに、すぐ目の前を1列に並んだ集団が通り過ぎる。トイレに行く人も目の前を通る。生活のすべてが見られているようでやりきれない思いだった。

仮設住宅に入居し、あん摩・マッサージ・はりの治療院を開業するための手続きの際には盲人協会の方より協力していただき、地元の保健所に申請した。許可は下りたものの、不自由な避難所生活や環境が一転したことから体調を崩し、いまだに休業状態である。が、音声血圧計・音声体重計・点字機などの生活用具を同協会より提供していただき、健康管理に大変助かっている。

1年ぐらい前から同行援護のサービスを受け、体力づくりを目的に、散歩がてら買い物に出たりカラオケサロンに参加して住民の人たちと交流を図るようにしている。こちらから挨拶をしても、会釈だけされたり、黙ってものを置いていかれたりと、視覚障害者とどう接したらよいか分からない人が多いように思える。

自宅へ帰りたくても帰宅困難区域のため帰ることはできない。災害公営住宅に入居するにしても生活しやすい環境なのか、近くに障害者を理解してくれる人がいなければコミュニケーションがうまくとれず孤立してしまうのではないかなど、将来のことを考えると不安がある。一日も早く安心して生活ができるようになりたいと思う。

(ささきたかのり 富岡町にて鍼・灸・マッサージ開業)