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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年4月号

文学やアートにおける日本の文化史

文字文化と障害(術)

坂部明浩

今年の本誌2月号の特集「高齢障害者問題」で登場された本誌編集委員・花田春兆さんの、陶俳画が私の心を離してくれない。たとえば、

車いすに油さす母春の虹
花田春兆

喜寿記念の赤坂での個展(2002年)で初登場したこの陶俳画。斜めの緑色の大地の上の水色の空。夏の虹より淡い春の虹。虹は描かれていないのに、不思議とその存在が伝わるのは、きっと“花田書体”によるものだろう。

斜めに登る車いすともカタツムリとも感じとれる陶器の絵に、大地と空の両側から文字が包み込む。花田さんの自叙伝『雲へのぼる坂道~車イスからみた昭和史』の坂道の構図にもなる。

この坂道に淡い春の虹、いや、文字が取り巻いているのだ。素晴らしい。

偶然なのか、春の虹と俳号・春兆との同じ高さ、またその間に油さす母。まさに春に囲まれた母が元気を入れる構図。じつは私も花田さんの制作過程を拝見するなか、たびたびこの偶然なのか狙ってなのかという“あわい”を俳句の妙味と共に体験させてもらっている。脳性マヒという障害をおもちのなか、俳句と絵の置き所が絶妙で書体も毎回わずかに変わるのだが、それも結果として見ると、狙っていたかのようにじつに堂々としたたたずまいを見せてくれる。

文字や書の研究者、古賀弘幸氏は、花田さんの喜寿記念の個展で陶俳画の文字を親しみを込めて“春兆さんのはぐらかし”と評した。

「ごろっとした陶板、たどたどしいとも思える筆跡。俳句の風景をはぐらかしながら見る人を楽しませてくれる」。なるほど、私には収まりの妙と取れたものも、実のところ、じっとしていない、文字と陶器の戯れがあったのだ。“春兆さん”の文字は額縁の中で陶器とすら遊んでいるのだろう!

花田さんは「書の筆は草書体にすれば、下手でも何とかよく見えてしまうんだよ」と笑う。さらに、幻想文学者の上田秋成が手に障害があったにもかかわらず、遺筆の筆跡が滑らかだったことから、指で上手(うま)いこと挟んで書いたので余計な力が入らなかったのではと鋭く推察され、花田さん自身の実感からも文字のもつ柔軟性を語られた。

さてここで、そもそも文字そのものの形が、当初は、象形文字やシュメール文字など絵文字に近いものも多かったことに柔軟性の秘密があると思い、その歴史を身近な「漢字」から調べてみた。

中国の伝承によると、中国における文字の発祥は、黄帝の代に蒼頡(そうけつ)が鳥の足跡を参考に作った文字が最初とされる。現存する最古の漢字としては、殷(いん)の時代の甲骨文字だ。

たとえば、宮城谷昌光の小説『沈黙の王』では、その殷の時代に言葉を発しない王の子が、旅に出され、試練の挙句(あげく)、そこで以心伝心で伝わる若者に出会い、臣下に従え帰国する。その王の子が晴れて次の王になるにあたり、旅の途中で見た、雪の上に赤い足の鳥が歩いた足跡をヒントに、臣下にのみ伝わる内なる言葉でなく、天地に広がる言葉(漢字)を創っていくという小説で漢字の歴史を暗示する。

いずれにせよ、鳥のリズムのような息遣いを象形文字というカタチに宿したもの、と言えそうだ。文字は“生きて”いたのだ。

漢字研究の第一人者、白川静氏によれば、たとえば、「祭」という字は、左上は「月(肉づき)」を表し、「又」は手を意味する。つまり、肉を「示」という台に手を使って載せ、捧げるのが「祭」であったこと。その肉を捧げる時に、階段としての「⻏(こざとへん)」がつくと、「際」になる。神さまと人が接する所が「際」となる(『常用字解』白川静、平凡社)。何かMIYUさん(後述する)の発想とも響きあっているのを感じさせてくれる。

そして、起源を知れば、ますます、先ほどの花田さんの作品が文字と絵の間で遊ばれた気持ちが分かってくる。

(上図は、エジプトの象形文字に併走するように遊ぶスフィンクスの手話。この住谷さんのイラスト作品は、エジプト研究者と一般人の集うピラミッドクラブで評判を呼んだ)
※掲載者注:図の著作権等の関係で上図はウェブには掲載しておりません。

また、漢字の象形性を逆手に、他の意味に変えてしまう「顔漢字」なるものを創ったのが、一昨年、惜しくも亡くなられたろう者の写真家後藤田三朗さんだ。聴者の気づかぬほどの速さで瞬間を切り取る日頃の写真術と同様の鋭さでもって、現在の漢字の意味が自らに届く前?に、カタチを捉え、意味を打ち返しているかのようだ。

いわく、「曽」は「仮面ライダー」。「点」は「照明器具」。「災」は「大道芸のジャグラー」。「亙」は「トレーニングセンターの自転車」。

(なお、彼の瞬間を切り取る視覚世界は、本職の写真でも、言葉のプロ・天野祐吉さん、絵のプロ・大社玲子さんとのコラボで『のぞく』(福音館)という体験型絵本に見事結実している)

逆に、時間をかけて漢字と格闘するアーティストがMIYUさんだ。パソコン画面上でドット(点)で出来た明朝体の漢字を外字機能によって、ちょっとずつ形を加えて新しい字を創造していく。たとえば、「明」という字に、輪っかを作り始める。早々に「はい、おしまい」。うーん、作品としては物足りない、と一瞬誰もが思う。が、理由を聞いて納得。

「輪っかは何を?」

「これは、パパとママの煙草の煙!」

やられた! いつも並んで吸っているのだという。「明るい」のは煙草の火なのだ。左下には灰皿もある。

「みゆ字」はこうしてMIYUさんの極私的な日常を反映して作品となる。福祉作業所の様子もネタになる(そもそもアートにおいて極私的でないものなんてあるだろうか!アートの正統)。

書の作品と違い、文字の作品であるため、カタチの面白さと意味の面白さが相まって初めて「みゆ字」作品となる。象形文字を継承するみゆ字に注目だ。ちなみに、パソコンの外字登録機能を使って作成しているため、フリーソフトを使えば、誰のパソコンでもこのを文字として打ち出すことも可能。まさにみゆ字の意味がカタチと共にみんなへと広がるアートである。目下、約二百文字のみゆ字が勢ぞろいしている。

文字のアートはそれそのものが作品になる場合もあるが、“源流”のアイデアそのものでもある。みゆ字にも触発されて、新しい作品が生まれることのほうがむしろ自然であろう。みゆ字の川下でそのハンコやTシャツや超短編物語などが出来上がっていく。

文字はさらに進化する。最後に未来についても考えよう。抜群の身体表現で魅了する大阪の身障者劇団態変(たいへん)(代表・金満里さん。本誌2012年11月号に登場)は、障害者の移動の際の絶妙なバランスが「健常」者のありきたりな身体バランスを超えると評判だ。そこを近未来的に考えると、昨今のスマホ携帯には、手で持つバランスを少し変えるだけで、ちょうどその時点で、携帯の先に示された建物の情報等が分かるものもあるという。加速度やジャイロのセンサー等による感知と情報の関係を使えば、劇団態変のウェアに装着して障害の身体のバランスの軌跡をそのまま情報として図案化(=文字にする)出来る日も遠くないと思う。ITによる障害サポートも大切だが、体のなぞる“空書”そして新たな象形文字創造にもぜひ期待したい。「態変」というまさに、その劇団名そのものが「名が体を表してくれる」日も近そうだ。

(さかべあきひろ 著述業、働き方と物語研究会)