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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年4月号

列島縦断ネットワーキング【大阪】

足跡
―NPO法人精神障害者支援の会ヒットの歩みと今―

塚本正治

「うちの班は15人来てるけど、田中さんが休んでる」「講演会の途中で木村さんが寝とった」

2月1日生野区民センター。NPO法人精神障害者支援の会ヒット・NPO法人出発(たびだち)のなかまの会・生野区社会福祉協議会共同開催の「観て!聞いて!精神障がいのこと」講演会前後風景の一場面である。

この取り組みは生野区の取り組みとして町会に動員がかかった。いや動員だけではない。動員のおばちゃんが向こう両隣の友人を誘い、参加してくれはった。参加者は350人を超えた。この啓発事業のために何回も3団体で会議を重ねやっと開催にこぎつけた。

講演会と一人芝居がよかった。ACTの実践者・高木俊介さんの講演は、古代からはじまり、資本主義の成立・社会主義の失敗・新自由主義の光と影について語り、「精神病はみんながかかる病」と切り出し、認知症の話を参加したおっちゃん・おばちゃんたちの胸の中に届けた。「明日はあなたも精神病。町の中で生き暮らしてゆけるしくみと資源をともに作りましょう」と結んだ。約1時間の講演だった。

二部はよっちゃんの一人芝居。統合失調症の発病から入院・退院の人生を30分の熱演で表現した。言い忘れたが、出発のなかまの会は生野区で30年間、知的障害者の地域支援を積み重ねてきた団体である。

精神障害者支援の会ヒットは13年間、精神障害者の地域支援を行なっている。はじまりは1994年「精神障害者の生活の場づくりを進める会」の発足である。生野区・東成区・天王寺区の作業所・クリニック・市民団体が集まった。講演会「当事者は今」や大規模レクリエーション、「夜のたまり場」なる交流会を積み重ねてきた。

そして1996年、働かない作業所(サロン型作業所)トータスハウスを市民会立で設立した。開所前に、当事者のみんなで近所の小学校や中学校にチラシまきをして知らせた。そして、開所式にはあっと驚く200人が集まった。もちろん子どもたちも。楽しかったなあ。作業所の運営委員会には、当事者が運営委員として実質的な参加をすることも決めた。

1999年、生活支援センターすいすいの設立。地元町会から猛烈な反対運動を受けたが、全国の多くの人たちの協力を得て、半年で反対運動はクリアした。その半年間は毎日が会議・飲み会の繰り返しで、苦衷の中に胸ときめくものを感じた。中でもパク・シブさんの町会長巡りがヒットした。「今日は暑いでんなあ」「ちっと涼しゅなってきましたなあ」と13の町会長宅を毎日訪問してくれた。「まあコーヒーでも飲んでいきーや。せっかくのお客さんや。喫茶店から出前するから」と会長さんはもてなしてくれた。ある時町会の方から「反対ののぼり下ろすから、すいすいも10日間閉めてほしい」と注文がきた。会議でみんなでそれに向き合った。「こっちは何にも悪いことしてへんのに10日も閉所する必要はない」という意見も出たが、僕は「すいすいは1年2年で止める事業と違う。反対の旗下ろしてくれるんやったら10日間ぐらい閉めてもいいんとちがうん」と提案した。議長のオ・クァンヒョンさんがその線でまとめてくれた。そして1999年12月8日、大きな社会問題となっていた反対運動は終わった。

ある意味すいすいの設立が会のゴールであったが、町での偏見にストレートにぶつかり、ここからが新たなスタートとなった。2001年3月にNPO法人の認証を取り、精神障害者の地域支援と市民との協働という理念と使命をもって事業展開を拡大していった。

2001年6月8日「池田小事件」。マスコミは大々的に容疑者の精神科病院通院歴を報じ、それをきっかけに国は「心神喪失者等医療観察法」の強引な国会成立を目指した。僕は素朴に思った。「どうして精神障害者にだけ再犯のおそれがあるの」。その時、医大生に当事者の体験談を聞くプログラムを作るべきだと主張した。それからヒットの芦田さんと話し合い、中学校・高校での授業に当事者の体験談を取り入れてもらおうということになった。

あれは2003年かな。すいすいの近所にある玉津中学校に呼ばれ、僕は、2年生120人を相手に歌と体験を語った。先生たちから「今の子どもが2時間も黙って他人の話を聞いているのってめったにないことだ」と言われた。生徒たちは素直に「精神病って治るの?」「薬のんでたら癖になるんとちがうん?」と質問してくれた。うれしかった。

それがきっかけで、ヒットとして語り部を行なっていくことになり、桃山学院大学の栄さんを加え、大阪市に助成金を申請して「語り部事業」を開始した。まずは語り部の養成だ。

ヒットに関わっている当事者に声をかけ、「一泊二日の語り部養成講座」を開催した。もちろんプログラムはオリジナル。まずは交流し、そして各々自分の病の体験を振り返ること。そしてそれを言葉にすること。みんな苦しかった。でもそれを言葉にした。そして語るトレーニングだ。泣き出す人もいた。みんな塗炭の苦しみを味わってきたのだ。とても人間的なことだ。だから温かく抱きしめ合った。そして2006年、語り部事業を開始した。

ホームヘルプ事業が導入された2002年。その後、大阪では当事者がヘルパー2級の資格を取り、「当事者ならでは」の生活支援をしようという話が持ち上がり、大阪府が「ピアヘルパー養成講座」を実施した。ヒットの居宅介護部門であるヒットハンズでは、当初からピアヘルパーを雇用し、地域で仲間たちが孤立しないように事業運営をしている。現在、ヘルパー13人のうちピアヘルパーは9人、全体の利用者は30人である。「生活指導」ではなく、病の体験を重ね合いながら「見守り・促し」を軸に利用者と向き合い「生活支援」を継続している。

自立支援法の冬の時代がきた。ヒットも守りに徹するだけでなく、他障害の団体との交流を深め、消極的な積極さで事業転換をしていった。その一つは、ゆめくらぶ、トータスハウス、アトリエ・IK3か所での「生活介護」事業の展開である。送迎も含めたデイサービス事業なので、当事者の仲間もゆっくりとした時間をすごすことができる。次にグールプホーム・ヒットによるグループホーム・ケアホームの増設である。町で暮らすにはまず住まいが必要であり、ひとり住まいもあればグループホームでも暮らせる選択肢は絶対に必要なものである。三つ目は、昨年から開始した「ひっとほっと」による訪問看護事業の展開である。

基本的に精神科病院は必要ではない。まず必要なのは環境の調整である。そして地域の医療支援である。その両輪の片側をひっとほっとは担っている。事業を開始して間もないこともあり、今は青息吐息だが今後、町のクリニックと連携しながら、成長してゆくであろう。冬が長すぎるからこそ、今後10年の構想を思い描きながら今日の事務作業に追われるのも楽しいものだ。

ヒットは「社会的入院問題」を大きくとらえている。国が宣言した全国7万2千人の社会的入院者の解消に向けて、どんな政権になろうが声を大にして訴え、事業展開をしてゆく。今ヒットに勤める職員さんは約80人だが、その中にピアサポーターとして雇用している当事者の仲間もいる。「ピアならでは」の事業展開を推進していきたい。

今が厳しいからこそ大きな夢をみていたい。これはあくまでも僕の夢だが、湯治を精神障害者の生活支援に取り入れてゆきたい。大きなお風呂で身体を温め汗をかけば、気分をリセットすることもできる。眠れる。薬も減る。身体と精神とは一対のものである。生野区鶴橋には天然温泉が湧いている。安くておいしいものを食べることのできる店もたくさんある。異文化とも交流できる。後は、宿と24時間対応できる医療機関を設置すればいいだけのことである。そんな夢も今日の僕の足跡から始まる。

見学をされたい方は、ヒットまでご連絡ください。見学料については相談に応じます。もうかりまっか?ぼちぼちでんなあ。

(つかもとまさじ NPO法人精神障害者支援の会ヒット副理事長)