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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年5月号

時代を読む55

「ひまわり号」に関わって30年

フレンドシップトレイン「ひまわり号」は、障害者の「列車に乗ってみたい」「旅をしたい」という願いをもとに始まりました。列車で旅行することを通して、いつでも・どこへでも移動できる交通機関を目指してスタートしたボランティア活動でした。1982年11月、上野から日光に走ったのがその第1号でした。当時は「日本初の障害者列車」としてマスコミに大きく取り上げられました。

今でこそ、一定以上の乗降客のある駅は、エレベーター・多目的トイレ・点字案内等のバリアフリー設備が用意されています。私の勤務地東京大田区で、当時「福祉駅」として鳴り物入りでつくられた大森駅でさえ、道路から改札までのスロープがあるのみで、その先のホームまではエレベーターもエスカレーターもなく階段でした。

「ひまわり号」での旅行では、車いす利用の人にボランティアが数人ずつついて、車いすごと持ち上げて、駅の階段を昇降しました。車いす対応のトイレは、駅にも目的地にもまだ少なく、参加者の活動先に先回りして、スタッフが仮設洋式トイレをあわただしく設置し、終わるとまた先回りして対応したことを思い出します。

1982年に1本のみ運転された「ひまわり号」は、翌年以降には全国に広がり、「ひまわり号全国連絡会」もできました。1980年代は、国際障害者年(1981年)も始まった時期でもありました。その後の約10年で、「ひまわり号」は全国で年間70本以上運転されるまでになりました。このころから多目的トイレが駅・公共施設をはじめ、あちこちに設置されるようになってきました。また駅にはエスカレーター、さらに10年ほど遅れてエレベーターが続々と設置されるようになってきました。「ひまわり号」の活動がバリアフリー化への道を開く力になったことは間違いないと思います。

そうしたバリアフリー化の流れの中で、ひまわり号の運転本数は増加から減少に転じました。団体旅行から少人数のグループあるいは家族旅行へと、旅行への希望が変化してきたことと、交通機関のバリアフリー化がすすんで「ひまわり号」を利用しなくても、旅行をしやすくなったことが考えられます。

「ひまわり号」運転開始から30年あまり、スタッフが車いすごと持ち上げて階段を昇降したり、仮設トイレをかかえて走り回る風景はすっかり少なくなりました。

現在「ひまわり号」実行委員会は全部で35。「列車に乗って旅行をしたい」という願いから出発した「ひまわり号」は、すべての人が「いつでも、だれでも、どこへでも安心して利用できる交通のしくみ」と安心して住み続けられる「まちづくり」をめざして今も走っています。

(遠藤仁(えんどうひとし) 特別支援学校教員)