音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年7月号

文学やアートにおける日本の文化史

ハンセン病者迫害の狂気
『蛍の森』を読む

関義男

半世紀以上昔、私が高校生の頃にたまたま入手した新潮文庫『北條民雄集』(中村光夫編)を読んだ時の衝撃は未(いま)だ忘れられない。作品が優れているとか感激したとかいうのと質を異にする悪夢のような印象で、作品各々の情景が蘇(よみがえ)って幾日か眠れない夜が続いた。当時はハンセン病という言葉はなくて癩(らい)病と言われていた。その後2002年に『ハンセン病文学全集』(全十巻、皓星社)が刊行されて、療養所内における多彩な文芸活動や多くの才能豊かな人々がいたことを知って感銘を受けると同時に、療養所という凝縮された世界で起こったさまざまな事件を知り、新たな驚きを禁じえなかった。また『隔離の文学』(書肆アルス)の著者でもある若手気鋭のハンセン病文学研究者・荒井裕樹さんがしののめ読書会のメンバーだった時期に、折にふれて彼が語るハンセン病や療養所の話にもその都度驚いてばかりいたものだった。

驚いたり衝撃を受けたりするということは、裏を返せば私自身そのことに殆(ほとん)ど無知だったということに他ならない。その後さまざまな機会を得て、多少はハンセン病の人々に関する知識が深まったように思えたが、昨年、石井光太著『蛍の森』(新潮社)との遭遇によって、またもや新たな衝撃を受けたのだった。そこに描かれているのは、隔離政策から逃れたハンセン(以下「癩」と表記)病者たちの姿だ。

結局、これまで得てきた私の知識とは、「療養所」というフィルターをとおしてのものであり、具体的なイメージも「療養所」という枠組みの中でしか像を結べないものであることを知ったのである。

強制隔離された人々の圧倒的な数の多さやその問題の大きさが、他方に隔離されなかった癩患者がいたのではないかという疑念や想像を、私の意識の中から摘み取ってしまっていたようだ。

『蛍の森』が描いているのは、まさに療養所隔離政策から逃れた癩病者たちの悲惨な運命である。平和で静かな四国の山村の過去に隠されていた癩病者への集団的迫害をミステリー的手法で現代に蘇らせる。迫害事件があった過去とは、遠い昔のことではなく、1952~3年という高度経済成長期に入る少し前の手の届くような時期の話だ。しかし、当時はまだ「癩」への正しい知識も理解もなく、村人たちの偏見と差別意識は根が深い。火種となるようなきっかけがあれば狂気に等しい暴行や虐殺行為に駆り立てられる。集団で行う行為には「罪」とか「悪」の自覚が希薄だ。救い手となるはずの地元警察も迫害の加担者側で頼るすべがない。さまざまな残虐行為に見舞われ逃げまどいながらも、懸命に生き延びようとする姿は哀れすぎて絶句してしまう。

本当だろうか。フィクション小説とはいえ絵空事でここまで書くことは出来まい。四国の地図を広げれば、地名は実名のままだ。著者の気負いと過剰表現に圧倒されてしまうものの、その想像力が事実あったことを下敷きにしているとすれば、闇に葬られていた悲劇を蘇らせた作品の意味は大きい。療養所の外の世界で無惨な運命に見舞われた人々に対して、無知無関心であった私は思わず詫(わ)びたくなってしまうのである。

著者は差別語を躊躇(ちゅうちょ)なく多用する。「カッタイ」「ヘンド」「白痴」「犬娘」等々。「カッタイ」は癩の古語で差別的呼称。「ヘンド」は物貰いしながら遍路する人を蔑(さげす)む呼称であるが、わざわざ癩病者の遍路だけを差別的に呼ぶ時に使われたという。「差別的な表現を使用したのは不当な扱いがいかに激しかったかを知っていただくためです。」と著者は巻末にことわり書きしている。

石井光太氏は、最近出版される著書も多くなったドキュメンタリー作家で、その眼差しは社会の最低辺に生きる人々に注がれている。

『最大級の狂気の歴史』と題する小文(『波』新潮社広報誌2013・12月)によれば、『蛍の森』を小説の形式にしたのは遍路経験のある患者は全国の療養所に分散し、しかもその大半が死亡し、わずかな生存者も過去を振り返ることを嫌って口を閉ざしたため、証言として得られる資料が断片的で限られているのが理由だという。

国家主導の隔離政策から逃れつづけた人々は実数にして凡(およ)そどのくらいいたのか。多かったのか少なかったのかを判断する資料は私にはないが、私たち一般人の想像以上に多かったのではないかと思わずにはいられない。もしそうであるなら、その生活実態はどのようなものであったのか。松本清張原作映画『砂の器』に描かれる親子の遍路姿は非常に印象的であったが、あのような遍路は例外と理解していた私の認識は誤りだったのだろうか。

以下、前掲『最大級の狂気の歴史』の小文から抜粋してみよう。

「患者達は故郷を追われ、村人や警察の追っ手を逃れるようにして四国の山中に身を潜めた。」「なんとか断片的に得られた話は、短くとも耳を塞ぎたくなるほど残酷な内容だった。」「日本では国の隔離政策を語ることはあっても、歴史の陰にあった、この悲痛な過去は明らかにされてこなかった。患者達がいかなる思いで密林の中を亡霊のように歩き回ったのか。そこに差別の本質、犠牲者たちの祈りや宗教観など多くのものが内包されているにもかかわらず、記録に留められることはほとんどなかった。」そして著者は「日本が生んだ最大級の狂気の歴史はなぜ小説でしか書かれえなかったのか。(略)密林に消えていったハンセン病患者たちの生命の輝きとともに、日本が今に至るまで抱えている別の矛盾もまた垣間見えるものと確信している。」と結んでいる。(傍点は筆者)

証言や資料の断片のすき間を想像力で埋めて仕上げた物語に描かれているのは、山奥の「カッタイ寺」における患者たちの平穏な共同生活と小さな幸福だ。懸命に生きる彼等の中に愛が育まれ希望が生まれる。それらの一切が、村人たちの襲撃を受けて無惨に壊滅する慟哭(どうこく)と生地獄さながらの世界だ。

「カッタイ寺」とは、本書で初めて知る言葉だが、丸太を組み上げて建てた小屋のようなものだったらしい。癩に罹患した僧侶を中心に、患者たちは村人に見つからぬよう支えあって生活していたという。遍路に疲れた患者は寺に逗留して体力を養い、再び「カッタイ道」を遍路する。遍路する体力を失ってそのままま寺に居ついてしまう者もいる。

何故(なぜ)彼等は療養所を拒否して遍路するのか。「療養所では牢獄のような暮らしを強いられる」「不潔な大部屋で雑魚寝をさせられて食料の配給さえろくにない」「医師による人体実験も行われている」「療養所では医師が癩病者の血を抜き取っている」「死んだらホルマリン漬けにされて飾られる」等の噂が囁(ささや)かれ信じられていたらしい。「療養所」はさぞかし恐ろしい所と思われていたことだろう。

隔離政策を逃れ四国の山奥に身を潜めた人々が遍路となるのは、来世は病気のない体に生まれ変われるように祈りながら八十八カ所巡りをするためなのだという。しかし、癩病者は嫌われて正式の遍路道を歩くことが出来ないから、森の中にヘンド道(カッタイ道)をつくって身を隠しながら遍路したという。

拙文『鬼と山と障害者』(本年2月号)でも紹介したが、民俗学者・宮本常一の著書の中に四国の西之川山あたりの原生林の細道を悪戦苦闘して歩いているとき、カッタイの老婆に出会ったという記述がある。宮本はその夜、泊めてもらった農家で、四国山中にはカッタイ道というのがあってカッタイの人が行き来しているという話を聞き、また他の民家では「昔はカッタイ道だけを歩いても四国八十八カ所をまわることができた」という話を聞く。しかしそれは、一般の人の間の噂話だけで確証となるような手がかりは得られなかったとのことだ。

(「土佐寺川夜話」「山民往来の道」)

「カッタイ道」は戦後20年代もなお残っていたのだろうか。私の山歩きの経験では、山道は3年余り放置状態にあるとヤブに覆われて通行困難になり、数年を経ずして道であるか否か見分けるのさえ難しくなってしまう。やむなく廃道を歩いた経験のある私は、その困難さを身に沁みて感じている。

宮本の体験は昭和16年(1941年)のことであるから、『蛍の森』に書かれているようなカッタイ道が昭和20年代後半(1952年頃)になっても残っていたとは、にわかに信じられない。物語はフィクションであるから瑣末(さまつ)な事実関係にはこだわらないにしても、「カッタイ道」の痕跡が部分的にせよ残存しているなら、そのような道を歩いてみたいものだ。四国は山も谷も険しく奥深い。私の身勝手な空想であるが、もし「負の遺産」ともいうべき山道が再現できるなら、私たちの心の中に内在し、今もなお社会の表層に現れている差別や偏見を、苦しみを背負って歩いた遍路の姿に重ねて考えるきっかけを作ってくれるはずだ。

(せきよしお フリーライター)