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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年8月号

時代を読む58

森永ヒ素ミルク中毒事件

昨年夏、「森永ヒ素ミルク中毒事件」の関係者を尋ねて歩いた。1955(昭和30)年夏、西日本各地で、乳児に高熱が出て皮膚が黒くなるという症状が相次ぎ、森永乳業製の「ドライミルク」に混入したヒ素などによる中毒、と判明した事件だ。被害者数は1万2千を超え、うち130人が死亡した。

取材の直接のきっかけは、朝日新聞(東京本社版)夕刊に連載されていた「昭和史再訪」という企画だったが、個人的な動機もあった。私自身が被害者だったからだ。自覚的な後遺症がなかったため、事件の詳細に関心を寄せることはなかった。そのことに忸怩(じくじ)たる思いもあった。

約60年も前の事件で、近年では報じられることもほとんどない。その後の経過を改めてたどっておきたい。

厚生省(当時)は、翌56年に全国一斉精密検診を実施した。その結果は、受診者6733人中、「要治療」はわずか90人。専門家から後遺症を懸念する声があがったにもかかわらず、59年には「全員治癒を確認」と報告された。

終わったかと思われた事件は、69年になってにわかに注目された。大阪の養護教諭や保健師らが被害者を尋ね、約70人から事件当時の症状やその後の経過を聞き取った記録『14年目の訪問』が公表されたのだ。重度の障害も含めて約8割に健康障害があるという内容で、後遺症の存在を強く示唆した。反響は大きく、公害への関心を高めていた当時の世論を喚起した。

被害者の父母らは「森永ミルク中毒のこどもを守る会」に結集し、森永製品の不売買運動を展開するとともに、73年には恒久救済を求める民事訴訟を起こした。その結果、「守る会」と森永乳業、厚生省の三者会談で、森永側が全面的に責任を認め、被害と救済の一切の義務を負担すると約束。74年に訴訟を取り下げるとともに、「守る会」が主体的に救済策を立て、森永と厚生省がそれぞれの立場から協力する「ひかり協会」が発足。事件発生から約20年を経てようやく恒久救済の体制が整った。訴訟に関わった弁護士は、「ひかり協会」を「消費者被害救済の先進的なモデル」と位置づけている。

民事訴訟の弁護団長を務めた故・中坊公平弁護士は、冒頭陳述でこう訴えた。――乳児の「唯一の生命の糧」に毒物を混入させながら責任を認めない企業、そして「後遺症はない」とした国によって「被害者は、二度殺される」。

この国では、森永事件と前後して、水俣病やイタイイタイ病など深刻な公害病が続いた。加害企業と国が速やかにかつ真摯に被害に向き合えば、救われた命、より軽度だった後遺症は少なくなかったはずだ。現在でも、福島第一原発の事故による被曝の影響は広範囲かつ長期におよぶと予想される。いま、あらためて過去の事例から学びたい。(西岡一正(にしおかかずまさ) 朝日新聞記者)