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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年9月号

ワールドナウ

フィリピンの視覚障碍者たち:貧困の中でも夢がある

石田由香理

国際会議に姿を見せない人たち

皆さんは、フィリピンという国について、どのようなイメージを持っていますか?大型台風やフィリピンパブ…など、どちらかと言えばネガティブなイメージを持っていらっしゃる方が多いかもしれません。でも、私にとっては大好きな国で、私に生きがいを見つけさせてくれた国です。

私は、2012年3月から2013年2月まで、ダスキン愛の輪基金が実施している、ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業の研修生としてフィリピンに留学しました。私自身が全盲であることから、現地では視覚障碍者に出会い、その支援団体を訪れる機会が数多くありました。

フィリピン代表として国際会議に参加している視覚障碍者たちは、英語も流暢で高等教育まで受けており、パソコンを使いこなします。しかし、そんな彼らは恵まれた環境に育った、ごくわずかな人々に過ぎません。

フィリピンでは、就学年齢に達している視覚障碍のある子どものうち、小学校に通う者はわずか5パーセント、高校まで進む者は1パーセント以下だと言われています。視覚障碍者の95パーセントは学校に行った経験がなく、さらに地方になると、彼らの4割近くが障害をもっていると分かった時点で家族から捨てられ、教会で育てられています。今回は、そのような視覚障碍者たちを紹介したいと思います。

アレックスとマイエット

私が初めてこの2人に出会ったのは、2011年夏、アレックスが20歳、マイエットが17歳の時でした。2人とも、ある地方の高校2年生でした。フィリピン人は、家に人を招くのが好きで、彼らからも「今夜は僕の家に泊まりに来て」「じゃあ、明日は私の家ね」と招かれたのです。

アレックスの家を訪れた私は愕然(がくぜん)としました。彼は、ある中流家庭の家の裏庭にある、豚小屋の2階に住んでいたのです。家の中には食卓とベッド、そして壊れているのか、蛇口を最後まで閉めても完全には水が止まらない水道、それくらいしかありません。料理は外で火をおこして行うようで、バスルームは裏庭にあります。そして、豚小屋の2階なので、とにかくハエがすごいのです。私はそれまでにもスラムにホームステイして、コンクリートの床の上にダンボール1枚で眠ったりすることなどには慣れていました。しかし、そんな私でも、アレックスの家には1泊以上は住めないと、朝になるのを待ち焦がれました。なぜこんな暮らしをしているのか、アレックスはたどたどしい英語で話してくれました。

アレックスは16歳まで健常者でした。そこから視力が急激に落ちて、二度の手術をしたにもかかわらず、18歳で全盲になった時、家族から見放されたそうです。唯一の理解者は5歳下のいとこで、現在は、そのいとこと共に暮らしているとか。夕方になると、学校が終わった親戚の男の子たちが数人訪ねてきて、家事を手伝ったりしてくれることもあります。でも、アレックスの家族は、けっして彼を訪ねては来ません。一緒に暮らしているいとこは働いているそうです。15歳の年齢で、家賃と2人分の生活費を稼げる仕事…、私はあえて彼女に何の仕事をしているのかは聞かずにおきました。

翌日はマイエットと共に帰宅しました。彼女は一見、裕福な家庭で気ままに育ったお嬢様のように見えます。しかし、そんなマイエットの家も、やはりスラムの一角にありました。

初老のご両親が迎えてくれました。30代の子連れのお姉さんがいるようです。マイエットはまだ17歳なのに、ずいぶん年の離れた姉妹だなと思っていました。すると、次から次へと、マイエットの「お姉さん」や「お兄さん」が帰ってくるのです。「え、この人もお姉さん?あなた、何人兄弟がいるの?」と聞いた私にマイエットは、「えっとね、何て言うか…、実は彼らは私の本当の家族ではないの」と答えました。

マイエットは、3人兄弟の末っ子として、フィリピン人の父親とレバノン人の母親の間に生まれました。上の2人の兄弟は障害がなかったのですが、視覚障碍のあるマイエットが生まれた時、父親は家族を捨てて逃げ、その後、行方が分からないそうです。生活が苦しくなった母親は、子どもたちを親戚に預けて、レバノンに帰ってしまったのです。上2人の兄弟は別の親戚が引き取り、この家族がマイエットを引き取りました。

一昨年、ダスキン愛の輪の研修生として留学した時、私は彼らと再会しました。アレックスは22歳、マイエットは19歳になっていました。

「卒業後は?これからどうするの?」と聞く私に、2人は「大学に行きたいな」と答えました。でも、私たちはみんな分かっているのです。彼らの家庭からは、けっして大学になんて進学できないことを。そしてこの地方では、障碍者に就職先などないことを。

職業訓練と自信回復プログラム

首都のマニラに出れば、少しは視覚障碍者支援団体を目にします。最貧困層の視覚障碍者を対象にしている職業訓練センター(National Vocational Rehabilitation Center:NVRC)もその一つです。

NVRCは、生活能力がないまま家族から見放された視覚障碍者を保護し、半年間マッサージもしくは料理のトレーニングを提供し、なるべく就職させる手助けをしている政府組織です。ここでトレーニングを受けている視覚障碍者の多くは学校へ通ったことがないので、英語が通じない人がほとんどです。また、みんな20歳以上の大人ですが、スプーンやフォークの使い方を知らない人もいます。研修として、お客さんに30分ほどマッサージをしてもらえる金額は日本円にして100円、それがその日の食費です。いくら物価が安いフィリピンといえども、一般的なレストランでは1食200円以上はかかります。

約20年前、NVRCの訓練生たちを励ますために、一人の全盲牧師がNVRCの近くに、マニラ盲人教会を開きました。人口の90パーセント以上がカトリック、5パーセント以上がプロテスタントであるこの国では、教会は人々の生活の中心です。視覚障碍者たちの寄付で成り立っている貧しい教会なので、祭壇には飾りの一つもありませんし、雨が降れば、雨漏りと床上浸水の被害に遭います。しかし、そんな場所でも、私たちにとっては温かい交流の場です。

日曜日の朝には、日曜学校と礼拝が行われ、金曜日の夜にはみんなで1週間の出来事や思いを共有します。ある弱視女性と全盲男性の結婚式もこの教会で行われ、そして私が日本へ帰国する時のお別れ会も、この教会で行われました。また、教会の牧師さんは、マニラ各地の学校に通っている視覚障碍児を訪ねて、「君たちは大切な存在です、生きていていいのです」と伝えています。

この教会ではNVRCの訓練生を対象に、ボランティアによる自信回復や自立のためのプログラムが毎日行われています。私も折り紙を教えるよう頼まれ、4か月間担当しました。クリスマスに向けて、自分たちで作った折り紙で教会を飾ることにしました。それはきっと彼らの自信につながるはずです。

最初は、紙飛行機一つ折るのに1時間もかかった彼らも、クリスマスが近づくころには色とりどりの花を折れるまでになりました。クリスマス後は、2月のバレンタインデーに向けて、花束と箱を作ろう…、点字紙を再利用して籠を編んでみよう…、英語と現地のタガログ語とを織り交ぜながらの2時間は、私たちにとって互いに学び合う大切な時間でした。

当時、まだ大学生だった私にできることなどほとんどなく、ただ彼らと共に過ごし、彼らから学ぶ日々でした。私は今秋から、イギリスにあるサセックス大学のMA International Education and Developmentに1年間在学して、教育開発の修士号を取得する予定です。私が大学院を終えて就職した時、今度は彼らに何か恩返しがしたい。マイエットやアレックスの大学進学の夢を現実に変えられるような活動がしたい、そう思っています。

(いしだゆかり イギリス在住、サセックス大学大学院修士課程)