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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年10月号

文学やアートにおける日本の文化史

支援機器の今昔とアート
―タイプアートからパソコンアートまで

岡本明

電動タイプライタで絵を

今から30年も前のこと、何かボランティアをしようと考えて、初めて東京都障害者福祉会館に行ってみた。ある部屋に数人の脳性マヒの人とボランティアが集まっていた。現在のNPO法人「風の子会」(東京都港区)が、まだ小さな集まりだったころである。話をしている人、作業をしている人などさまざまだった。

なかに、タイプライタでF、ときどきOや#などの文字を使って絵を描いている人がいた。これはタイプアートというものだと教えてもらった(今でいう、アスキーアートだ!)。一人は50歳くらいの方で機関車を、もう一人はきれいな模様を描いている。二人とも重度の脳性マヒで手足の不自由と重い言語障害がある。話しかけても答えがよく分からないが、絵のことを一所懸命説明してくれた。模様を描いていたのは20歳代の伊藤隆夫さんで、タイプアートコンクールで入賞するほどの腕前だ。カラーインクリボンを巧みに使い分けて絵を描いていく。タイプアートのために作られた、黒と赤だけではなく8色をつなげたリボンなので、いちいちリボンを交換しなくて済む。打ち間違えると白のリボンで消す。脳性マヒによる不随意運動のために、直すつもりでないところを消してしまってまたやり直し。悪戦苦闘だ。しかし、実に楽しそうにやっている。

当時刊行された『しののめ』増刊号(昭和55年3月、しののめ発行所刊)に紹介された伊藤さんのお母さんの話では、打つのは一日1時間半が限度。それ以上やると肩が痛くなるので、一枚描くのに1週間はかかる、ということだった。だが、得られる達成感は他に無いものだったという。

使っていたのは、オリベッティ製とオリンピア製の電動タイプライタだったと記憶している。電動なので軽くキーを押すだけで打てる。重度の障害のある人も使うことができ、自由に自分の思いを発信できる。パソコンもない時代、まさに貴重な機械だっただろう。

タイプアート

本来、文字を打つためのタイプライタをアートにも使いはじめたのは19世紀の人だった。知られている最も古いタイプアートは、1898年にフローラ・ステイシーという女性が描いた蝶の絵である。もちろん手動タイプライタによるものだ。彼女には障害はなかったと思われる。以後もタイプアートは特に障害のある人のアートだったわけではない。1922年にはホバート・リースが「活字だけで描いた人物画」を発表した。また、1930年代に偉大なタイプライター・アーティストといわれたジュリアス・ネルソンの著作『Artyping』にはいろいろなタイプアートが描かれている。

電動タイプライタは1900年代初めに開発され、レミントン、IBMなどいくつかのメーカーが製品化したが、値段も高く、故障も多かったため、本格的に普及したのは1960年代である。

障害のある人のタイプアートがいつごろ始まったかについての記録は見当たらないが、重度の障害のある人がタイプライタを使えるようになったのは、電動タイプライタの出現以後であろう。日本では、電動タイプライタが日常生活用具として支給されるようになって以降、さらに普及してきたと思われる。前掲『しののめ』増刊号は、当時のタイプアート、電動タイプライタや日常生活用具給付制度について詳しく紹介している貴重な資料である。

日常生活用具給付制度

日本で障害のある人にいろいろな機器が支給されるようになったのは昭和25年、身体障害者福祉法に「補装具給付制度」が定められたのが始まりである。昭和44年には日常生活用具の給付も開始された。本来この支給制度は、日常生活や働くことを容易にするため、意思伝達や日常生活の便宜を図るためのものとされていて、必ずしもアートのようにQOLの向上を目的としたものではないが、重度の障害のある人にとっては、絵を描いたり、詩やエッセイを書いたり、まさに生きがいを作り出す用具としても大いに活用されていたのである(絵を描くため、というだけの申請理由では認められない)。

用具の支給は、現在は、障害者総合支援法の自立支援給付(補装具費支給)と地域生活支援事業(日常生活用具給付)に位置づけられている。また、時代の流れとともに、電動タイプライタは支給される用具のリストにはすでになく、代わりにパソコンや支援ソフトが挙げられている。

タイプアートコンテスト

タイプアートは前述のように、重度の障害のある人に生きがいを与えるものとなり、その作品も素晴らしいものがたくさん作られるようになってきた。(社福)日本肢体不自由児協会ではこれに注目し、タイプアートの展覧会を開催してきた。これについて同協会業務部の吉原芳徳係長に昔の書類を調べていただいた。残念ながら初期の書類は残っておらず、不確かなところもあるが、概ね次のようなものだったようだ。

同協会は昭和54年から3回ほどタイプアートの展覧会を開催した。このときの展覧会の正式名称は不明であるが、第3回目の昭和56(1981)年は国際障害者年でもあり、海外にも呼びかけて、「肢体不自由児・者が描くタイプアートコンテスト展示会」として開催された。応募作品は国内198点、海外4か国(ニュージーランド、ポルトガル、南アフリカ、アメリカ)25点の計223点にのぼり、特賞15点、佳作賞60点が選ばれた。

昭和57年からは「肢体不自由児・者の美術展」として毎年開催され、今年は第33回となる。第1回~11回までは絵画、書、タイプアートの3部門で、第12回からコンピュータアートが加わり、タイプアートという部門は第30回から無くなった。これも時代の流れだろう。ただし現在も応募は受け付けており、常連として電動タイプライタで1人、パソコンで文字を使って描いた作品で1人の応募があるという。

美術展の第1回、第2回の入賞作品を見せていただいたが、いずれも素晴らしいもので、障害のある人のアートという枠を超えて、立派な美術品である。

同協会では併せて、2日間の「タイプアート指導者講習会」を昭和58年から63年まで7回にわたって開催した。これは当時の養護学校の先生を対象にしたものであった。このように障害のある人のアートに対する同協会の尽力はまさに称賛に値する。

現在のパソコンアート

技術の進歩とともに、電動タイプライタは姿を消し、代わりにパソコンが登場してきた。パソコンの描画ソフトを使えば絵筆で描くのと変わらないものが描ける。一つのスイッチを操作するだけでパソコンを使える支援技術が開発され、スイッチも手、足、舌、呼気、視線などで操作できるものが作られ、重度の障害のある人でも自由に意思伝達、メール、文章作成、さらには絵を描くこともできるようになった。

筋ジストロフィーで鹿児島の病院で生活していた日高和俊さんは、手が使えたときには市の美術展で入賞するほど素晴らしい絵を描いていた。病状が進んでからも彼は描くことをあきらめず、特製のスイッチと描画ソフト『水彩』を使ってパソコンで絵を描き続けた。昨年1年間、本誌『ノーマライゼーション』の表紙を飾っていたのは彼の作品である。日高さんは惜しくも今年5月、46歳の生涯を閉じた。アートや詩に囲まれた、豊かな人生だった。

本誌6月号のグラビア『脳裏を駆ける顔・顔・顔…パソコンで描くイラストレータの世界』で紹介されている梶山滋さんもパソコンを駆使して似顔絵を描き、似顔絵画集『深裸万笑』を出したり個展を開いたり、イラストレータとして活躍している。皆、かつての電動タイプライタに始まるアートの伝統を引き継ぐものと言っていいだろう。

おわりに

冒頭に紹介した伊藤隆夫さんは現在58歳、残念ながらもうタイプアートはやっていないとのことだが、その作品は母校の都立光明特別支援学校に大切に保管されているそうである。活字を使うという制限の中でのタイプアートには、絵筆やパソコンによる絵とは別の魅力がある。他の人の作品も併せていつか改めて公開されるとうれしい。

パソコンアートは今後も描画ソフト、CG、動画技術、プリンタ、さらには3Dプリンタなどの発展とも相まって、さらに進歩していくものと思われる。重度の障害のある人でもこれを駆使できる支援技術が遅れることなく開発され、誰もが自由に創造性を発揮し、生きがいを作り出せるようになることを期待したい。

(おかもとあきら NPO法人風の子会副会長、筑波技術大学名誉教授)