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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年11月号

文学やアートにおける日本の文化史

障害をもつ人の俳句
―母を詠んでみませんか

栗林浩

俳句をお勧めしたいと思い、筆を取った。俳句は、実は究極のエコ文学である。歴史的にも、障害をもつ人の短歌や俳句は多い。しかも傑作が多い。今まで暮らしてきた日常からの「思い」の蓄積があれば、そしてそれをリズミカルに17音で表現出来れば、誰にでも俳句は出来上がるのである。紙と鉛筆があれば大げさな仕掛けは要らず、したがって、俳句は究極のエコロジカルな文芸だと言えるのだ。

テーマは、たとえば「母」が良い。我々は全員が「母」を持っているから……。

本誌の編集委員で俳人でもあられる花田春兆氏には、こんな句がある。

車いすに油さす母春の虹 春兆

このような作品の蓄積が、年月をかけて、日本の文化史をかたち作っていくのであろう。

本稿は、障害をもちながら生涯俳句を詠み続けた村越化石(本名英彦)を取り上げる。彼の主テーマも「母」であった。化石氏は、大正11年に静岡県岡部町(現藤枝市)に生まれ、平成26年3月に91歳で群馬県草津市の栗生楽泉園で亡くなった。ハンセン病患者であった。病が分かったのは15歳の時。村からたった2人しか入れなかった名門中学校(旧制)の全校健康診断の時であった。痺れを感じていた手を医師におそるおそる見せた途端、医師の顔色が変わったという。「村越君、すぐ帰りなさい」と言われ、全校が消毒されたのであった。

治療のため病人宿へたった一人で行かねばならなくなった英彦少年は、運命を恨み、泣いて「行きたくない」と母(名を起里といった)に訴えた。母は「それなら私と一緒に死んでくれますか」と言った、と聞いている。当時、ハンセン(癩)病はそれほど恐れられ、忌み嫌われていた病気であった。

東京の病人宿で民間治療を続け、そのうち俳句というものを知ります。歳時記を求めて、ボロボロになるほど読み、それから群馬県へ移り、爾来(じらい)、ずっと俳句を作り続けたのである。特効薬が出来たため、命は助かったが、副作用で目がやられ、歩行も困難となった。しかし、親切な師に出会い、彼の俳句はメキメキと上達する。化石氏の作品を見て行こう。

目が見えていた時の句は、たとえば、

闘うて鷹のゑぐりし深雪なり

であり、力強い作品である。そのうち半眼を失い、さらに全盲となる。そのころの句は、

籠枕眼の見えてゐる夢ばかり

で明らかである。脳裏には、故郷のこと、母のことが一杯詰まっている。幸い耳は聞こえる。そのことは、

今生に長居して聞くきりぎりす

でよく分かる。こんなに長生き出来るとは思っていなかったのである。嗅覚も残っていた。次の句で分かる。

百合の香を深く吸ふさえいのちかな

残っている感覚はかえって鋭くなり、百合の香にも、いや、その匂いにこそ「いのち」を感ずるのである。化石氏は、それゆえ「いのちの俳人」と言われている。

幸い、味覚も残っていて、酒が好きであった。最晩年、医師に止められるまで、少しずつ楽しんでおり、筆者も楽泉園へ見舞いに行く時は、銘酒を持参したものである。

はらからの一人を待てり温め酒

お酒を用意して、同じ病の友人を待つ姿である。このほか、化石氏は、歩行困難であったから「杖」を頼りにしていた。

天高きを杖のひびきに知りて歩す

感覚的には、杖は体の一部になっていたのであろう。

こうして化石氏は残された感覚をフルに生かして傑作句を作り、俳句の世界の著名な賞(角川俳句賞、蛇笏賞など)をことごとく手中にした。蛇笏賞という賞は、俳句の世界では最高の栄誉の賞なのである。

ここで、化石氏の母起里に対する化石の想いの深さを鑑賞したい。

病気治療のため東京へ出る時、一緒に死を覚悟した起里は、それからも陰で化石を励まし慰めている。草津へも何度か見舞に来て泊まっている。世話になっている園長に、起里は毛筆巻紙の丁重な手紙を盆と暮に書いている。凛とした考え方と豊かな母心を持ち、かつ律儀なひとであった。

つるばらや生き会ひて母の辞儀篤し

第一句集を出す時、化石氏の名前が公になる訳だが、故郷の実家に迷惑がかからないかと化石氏は懼(おそ)れた。母に手紙で訊いた。母起里は、

「今度句集を出してもらえる様になった由、結構です。(中略)色々家に迷惑とかいう点は心置きなくやって下さい。別に尊い人生を世間に秘している訳でなし、よい事をやってくれるのでしたら却って誇りにもなるくらいです。どうぞご心配なく」

と書いて、金銭的な応援が必要なら多少の範囲で応じてもよい旨、応えている。だが、句集が出来上がる前に、起里は脳溢血で亡くなる。

蟹走り喪のわれ何処へゆかむとす

化石氏は葬儀にも出られなかった。当時の園は、患者たちにとっては格子なき牢獄のようであったそうだ。その時の句である。母の突然の死の電報を受け、何もできずにうろうろしている悲しみと苛立ちが読み取れる。母を詠む句が続く。

母の夢見しより夜長はじまりぬ

柚子匂ふはるかより母現れ給へ

たそがれの呼び声は母豆の飯

母なき川曼珠沙華なと流れ来よ

曼珠沙華わが母のほか母在さず

四句目は意味合いが少し違う。ある年、療養所同士が訪問しあう機会があり、化石氏は園のバスで静岡県の施設を訪問することができた。人目を避けるためバスは草津から裏道を選んで走ったそうだ。幸い、静岡の療養所の別の車に便乗して4~5人で近在を巡る機会があり、実家のすぐ前を通ってくれたそうだ。だが、寄ることはできなかった。実家の前の川の土手には曼珠沙華が咲いていたのだ。そこで「母なき川曼珠沙華なと流れ来よ」の句が成った。

最後の句にまた曼珠沙華が出てくる。家の前まで行きながら……実は、化石氏は故郷を出てからずっと帰れないでいた。

その化石氏が郷里を離れて60年ぶりに一度だけ里帰りが出来た。岡部町に村越化石の俳句業績を顕彰しようとの運動が起こり、浄財を集めて立派な句碑が建てられたのだが、その除幕式の時、ただ一度二泊三日で帰ったのであった。その句碑の俳句は、

望郷の目覚む八十八夜かな

である。そして、今年3月逝去。5月には、実家の墓に入り、母起里と一緒に眠っている。おりから新茶の季節。新緑の茶畑が広がる小山の上に墓がある。昔は、癩病者は亡くなってもその骨を引き取って貰えなかった、と聞く。酷い偏見であった。幸い化石氏は、実家と地元の理解、いや、歓迎があって、白い骨になっての二度目の、そして永久の帰郷が叶ったのであった。

もう一人、やはり蛇笏賞を授与された澁谷道氏のことも、少しだけ触れる。道氏は、大正15年生まれだから、化石氏より4歳下である。いずれにせよ、同時代の俳人である。生まれ育ちは彼女の方がずっと恵まれていた。だが、健康には恵まれなかった。彼女は良く勉強し、小児科医となったのだが、若い時から病気がちであった。大きな手術を何度も何度も潜り抜け、今は車椅子の静謐な毎日を過ごしておられる。女子医専の時から俳句を学んだのだが、やはり母を詠んだ句がある。

母逝きて夜の石橋すべて石

両面に雪ふる扉亡母の忌

さるすべり亡父と亡母逢う羨まし

鴨が翔つしぶきは緋なり母を恋い

母恋うは坂のぼること奈良まくなぎ

母の忌はこなゆき文机裁鋏

あやとりの箒をかざす亡母かな

母は、道氏が19歳の時に亡くなった。道氏は現在89歳であるが、やはり母を読んでおられる。数年前の一句であるが、

母在せり青蚊帳といふ低き空

という作品があり、多くの俳人が道氏の代表作の一つとして取り掲げている。「母」と「蚊帳」で古さを感じさせるが、これぞノスタルジアの句。母を思い出す時、母は不思議にいつも蚊帳の中の母だ。蚊帳独特の匂いが懐かしい。蚊帳の天井が低い空のようで、母が身近に感じられる。「低き空」が言い得て妙である。

道氏は永く大阪におられたが、最近は埼玉に移られ、弟さんの近くの老健施設でお暮らしである。関西での友人たち(特に俳句仲間)から遠く離れ、知人の殆どいない新しい地での生活は、俳句が唯一の友であり、多分、母のことも思い出しながら詠まれているに違いない。母は70年前に亡くなっている。だが、何年経っても母は良いテーマである。

表現者のお一人として、みなさんも俳句を、そして「母」を詠まれては如何でしょうか。

(くりばやしひろし 俳句評論家)