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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年5月号

文学やアートにおける日本の文化史

新しき者の創造と再生
―神話における障がい者

細田満和子

現代に生きる神話

現代の私たちにとって、神話とはどのようなものであろう。遠い昔のお伽話(とぎばなし)として楽しむもの、教訓となるもの、過去から学び新たな認識を得るもの、といったところであろうか。

たとえばアダムとイブの神話は、狡猾な蛇にそそのかされて、食べてはいけないとされていた善悪の実を食べてしまったことにより、楽園を追放される罰を受けるようになったという人類の神話である。この時、善悪を知るということは、知識を持つことの始まりであり、知識は科学技術として、人間にとって創造的な側面と破壊的な側面を併せ持つことを教えてくれる。現代でも医学を含む先端的な科学技術が、必ずしも人々に利益だけをもたらすものではなく深刻な問題をもたらすものであることが、科学倫理や生命倫理の課題として常に議論になっている。

ゑびす神話

このような神話の中に、障がい者が登場する例は世界中に存在している。日本では、七福神に数えられるゑびす神がそうである。ゑびす神は、海の神として豊漁をもたらすと信じられ、満面の笑みをたたえて右手に釣竿を持ち、左手に鯛を抱えている恰幅の良い狩衣姿の図像は、大漁旗などに好まれて用いられている。また、福をもたらすということで、商売繁盛の神として神社に祀られたりしている。

花田春兆は『ゑびす曼荼羅』という企画の中で、「イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に、最初に生まれたのが実は障がい児で、3歳になっても歩くどころか、体はグニャグニャで、田んぼなど水の中をヒラヒラ泳いで、動物の血を吸うヒルに似ているので、ヒルコと名付けられました」と書いている1)

このヒルコは葦の船に乗せられて海に流されてしまうが、無事に岸にたどり着いて、ゑびすとして海の神になる。花田は、国造りの忙しさの中で捨てられた障がいのある子が、庶民によって助けられ、海の恵みの豊かさをもたらすようになった神話であると解釈している2)。ここに、破壊と創造、そして再生のモチーフが見て取れる。

ギリシア神話のヘパイストス

ギリシア神話においても同様のモチーフがある。オリュンポス十二神のひとりであるヘパイストスである。ヘパイストスは、最高神ゼウスとその正妻ヘラの第一子であるが、両足が曲がっているという障がいを持って生まれてきた。ヘラはそうしたヘパイストスを嫌悪し、生後すぐに海に投げ落としてしまった。

その後ヘパイストスは、9年もの間、海底の洞窟の中で孤独に過ごすことになる。この間にヘパイストスは、鍛冶の技術を習得してゆく。鍛冶とは、物を作り出すためにいったん金属を溶かしてから、その金属を自分の意図するものへと新しく作り変えてゆく作業である。ここには破壊と創造という相対立するふたつの営みが共存している。

溶解には、今までにあるものを無にしてしまうという破壊的な側面があり、溶かしたものを再びある形に作り上げてゆく形成という過程には創造的・再生的な側面がある。洞窟の暗闇の中で、1人黙々と鉄を打つ筋骨隆々とした孤独な神の姿は、ピーテル・パウル・ルーベンスの傑作に見ることができる。

寡黙なる巨人

破壊と創造、あるいは再生のモチーフは、人生の途中で障がいを持つようになった中途障がい者と呼ばれる方々にも見出せる。世界的な免疫学者である多田富雄は、2001年に脳梗塞に倒れ、失語症になり右半身麻痺となった。しかし、その後も従来にも増して旺盛な著作活動を続け、2006年にはリハビリ診療報酬180日制限撤廃運動の先頭に立ち、国の医療制度改悪に抗議し続けた。

彼は、身体が麻痺した後に機能回復訓練を続けてゆく過程で、自分の中に、自分とは異なる別の存在が生まれてくる感覚を得る。

「私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんなやつだろうとひそかに思った。得体の知れない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるものに期待と希望を持った。

新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱々しく鈍重だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた。私には、彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた」3)

多田は、自分の中に生まれた新しい人を「巨人」と呼ぶ。この「巨人」は、今は暗闇の中で動きのないまま沈黙を強いられているが、無限の可能性を秘めた存在としてそこにいて希望となっている。多田の「鈍重な巨人」は、ヘパイストスのイメージと重なる現代の神話ではないだろうか。

新しきものの創造と再生

筆者はかつて、脳卒中になった方々にお話を伺ったり、患者会などで交流したりさせていただいてきた。その中で、多くの脳卒中サバイバーの方は、発症後すぐは「障がい者になった自分に生きる方法などない」という思いを持ちつつも、ある年月が経つと「新しい自分を発見しつつある」、「新しい自分になった」、「生まれ変わった」とおっしゃるようになる4)。中には「脳卒中になって良かった」と言う人さえいた。ここにも破壊と再生のモチーフが見て取れる。

ゑびすやヘパイストスの神話、そして多田を含めた脳卒中サバイバーに共通する破壊と創造と再生のモチーフは、障がいが「罰」や「苦しみ」や「穢れ」などと見なされてしまっている傾向に対して異議申し立てを行い、新しい認識を生み出そうとするものと捉えられる。

脳卒中サバイバーの鶴見和子は、脳卒中からの回復を「いったん死んで命甦る。それから魂を活性化する。そしてその活性化された魂によって、新しい人生を切り開く」こととして、「回生」と概念化した5)。今、ここにある障がいを持つ身体や実際に営まれている現実の生活を、ほかならぬ自分のものであると受け容れたうえで、今まで以上の力を漲(みなぎ)らせて、それまでとは異なる人生を切り開いていこうという宣言であり、新しい認識へと人々を誘う。この「回生」の概念は、花田による『ゑびす曼荼羅』の企画意図と重なる。

「『ゑびす曼荼羅』が敢えて積極的に明るさへ目を向けたのは、ともすれば、障害者(ママ)を単なる弱者・無能力者としてしか見ない、見ようとしない一部の傾向に対してのささやかな抵抗なのです。

併せて、現在のヒルコたちが、エビスに転生し、復活すること、真の意味でリハビリテーションすることを願う限りでもあります。」1)

こうしたメッセージが、破壊と創造、そして再生の現代の神話を作り続けている。この神話から我々はいかに学べるかが鋭く問われている。

謝辞:本稿は、花田春兆氏の企画によるコンピューターアート『日本障害者文化史絵巻』とコンピューター音楽による交響詩曲『ゑびす曼荼羅』、ならびに関西リハビリテーション病院の臨床心理士である定政由里子氏のご講演『障害受容を超えて―臨床心理士の立場から―』(平成25年2月3日、CRASEEDアドホック講演会)、そして故多田富雄氏の諸著作や氏との私的対話から着想を得ている。この場をお借りして、皆様に厚く御礼を申し上げます。

(ほそだみわこ 星槎(せいさ)大学副学長)


【注】

1)花田春兆「交響詩曲 ゑびす曼荼羅~日本障害者文化史絵巻(DVD)~」日本障害者協議会。http://www.jdnet.gr.jp/old/Ebisu/index.ja.html#chapter1(2015年3月15日ダウンロード)

2)花田春兆(1987)日本の障害者の歴史―現代の視点から―『リハビリテーション研究』第54号、2頁-8頁。http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r054/r054_002.html.(2015年3月15日ダウンロード)

3)多田富雄(2007)『寡黙なる巨人』集英社、40-41頁。

4)細田満和子(2006)『脳卒中を生きる意味』青海社。

5)鶴見和子(2001)私の回生、〈シンポジウム〉生命のリズム―倒れて後に思想を語る、『環』7号、220-223頁。