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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年6月号

1000字提言

東日本大震災が残した課題

萩尾信也

2万人近い死者行方不明者を数えた2011年の東日本大震災。発生後1年間にわたって現地取材を続け、「障害者」に対する想像力の欠如と対策の不備を痛感した。

岩手県沿岸部の避難所に自治体の福祉担当者がやって来たのは、発生から数日後のことだった。肩を寄せ合う人々にこう呼び掛けている。

「耳が聞こえない方いらっしゃいますか?いらっしゃったら、手を上げてください」

「毎日、情報を書いて壁に張り出します。後で読んでおいてください」

耳の聞こえない人にその声は届かず、目の見えない人に張り紙は読めなかった。

道路が寸断されて孤立した地区に住む盲ろうの女性は、数週間後に通訳介助者がたどり着くまで、コミュニケーションが取れずに不安を募らせていた。

自閉症で引きこもりの少年の母親は、「避難所では周りに迷惑がかかるし、息子も混乱する」と近くに停めた車の中で夜を明かしていた。

夏になると、仮設住宅への入居が始まった。全盲の兄妹は「分かりやすい場所に入居したい」と申し出た。中学校の校庭に棟割り長屋のような均一な建物が並ぶ仮設住宅は、目が見えていても入居先を見失いがちだった。

割り当てられたのは角地にある1号棟の1号室。一番分かりやすい場所にあったが、近くを車道が走っていた。「車が怖くて外に出られない」。兄妹はしばらく外出ができなかった。

仮設住宅に備え付けられた電化製品の説明書に点字版や音読版はなく、「福祉ボランティア」が仮設住宅を訪問して使い方を説明してくれるまで手探りの生活が続いた。

同様の事例は、1995年の阪神・淡路大震災でも報告され、対策が求められた。翌96年には、「災害時に介護の必要な高齢者や障害者の受け入れ施設」として「福祉避難所」の設置が法整備され、指定と運用は各自治体に委ねられた。仮設住宅に移行するまでの期間、バリアフリーの整った施設に集め、障がいに応じて専門家が交代でケアや情報保障を行う――とされた。

しかし、東日本大震災の前に福祉避難所を指定していた自治体は一握りだった。あれから4年を経た今日に至っても、未指定のままの自治体は数多く存在している。

ならばどうするか? 震災を体験した当事者と家族ら関係者には、機会がある度にお願いしている。「過ちを繰り返さないために、まずは体験者であるみなさんから声を上げ、対策を講じるように求めてください。待っていては、変わりません」と。


【プロフィール】

はぎおしんや。1955年生まれ。毎日新聞部長委員。末期ガンの先輩記者の看取りの軌跡「生きる者の記録」で2003年度早稲田ジャーナリズム大賞を、東日本大震災発生時から1年間にわたる記録をつづった連載記事「三陸物語」で2012年度日本記者クラブ賞を受賞。