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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年8月号

障害児学校の学童疎開

松本昌介

思い出したくない学童疎開

学童疎開を経験した人は少なくなった。人生の中で思い出すのも辛い日々である。

私は1944(昭和19)年8月から1945(昭和20)年12月まで、山梨県の母親の実家に縁故疎開をした。約15か月間である。東京から3家族が疎開し、それぞれの家族が1部屋ずつで暮らしたので、窮屈な生活だった。疎開した時、私は国民学校(小学校)2年、他の家族にも同じような年齢の子ども(従兄弟)がいたので、大変にぎやかというよりトラブル続きの毎日だった。

学校も疎開者が急増し、児童数は倍になった。田舎の乱暴な子どもにはいじめられるし、言葉がわからなくて苦労したし、家に帰っても落ちつく場所もなし、辛い毎日だった。

空襲の中を逃げてきたと言って、焼け焦げた背広で東京から逃げてきた父の姿も忘れられない。疎開時代のことは思い出したくない、それは縁故疎開経験者も、それにもまして集団疎開経験者も同様な思いではないだろうか。

障害をもった児童にとっては、おそらくもっと辛かった思い出になっていると思われる。障害児学校疎開の事実は、やがて歴史の中に消えていくのかなあとしばしば考える。でも、だからこそ、戦争と学童疎開が障害者をどれだけ苦しめたかを語り継がなければならないと思っている。

学童疎開とは何だったのか

学童疎開開始にあたって、1944(昭和19)年7月に、東京都の大達茂雄長官(知事)は次のような趣旨の訓示をしている。「帝都の学童疎開は…帝国将来の国防力培養であって…帝都学童の戦闘的配置」としている。学童疎開は戦争遂行上の施策であるということを述べた。子どもたちを空襲の惨禍から守るという趣旨は後方になり、「戦争遂行上の施策」という面が強調されてきている。さらに、都教育局は疎開児童を「疎開戦士」と呼び、学童疎開は戦闘配備と位置づけている。

ということから考えれば、障害児の学童疎開は、「学童の戦闘的配置」には含める必要はないということになる。むしろ足手まといという存在でしかなかった。それは言葉の上だけのことではなく、各障害児学校の疎開実施の姿を見れば明らかである。

当時、全国ただ1校の肢体不自由児学校、都立光明国民学校について行政は疎開地を探すこともせず、校庭に防空壕を堀り、教室に畳を入れて「現地疎開」と称して全校児童を収容した。各区の学童が疎開地に発った頃、肢体不自由児たちは学校に寝泊まりをしていた。半年後にはこの校舎は空襲で全焼したことから見ても、この「現地疎開」を学童疎開の仲間に入れるわけにはいかない「学童の放置」ということになる。

校舎が再建されたのは、戦後4年も経った1949年のことであり、光明学校はその間、長野県の温泉地で長い疎開生活を送ることになる。この疎開地探しも行政は何もせず、校長が単身で長野県に行き、やっと見つけたのである。

当時、知的障害児の学校は大阪に思斉国民学校があるのみで、小中学校の特殊学級が多くの児童の教育に当たっており、また「就学猶予、免除」を前提に、各地の施設が受け入れていた。その中の一つ伊豆大島にある藤倉学園は、軍から大島を出て行くように命令され、縁故をたどって山梨県清里村の施設を購入した。寒さと飢えで疎開期間中に10人の児童が亡くなった。行政がしたことは学園を島から追い出すことだけだった。「学校」でも「学童」でもないのだから、「学童疎開」とはいえないかもしれないが、知的障害児教育を学校教育から排除した責任もまた行政にあるのではないか。

障害児学童疎開調べは簡単ではない

光明学校の学童疎開の事実を明らかにしようと疎開に参加していた数人の卒業生、教師とともに資料探し、聞き取りなどを行い、1993(平成5)年に「信濃路はるか―光明養護学校の学童疎開」(田研出版(株)、1993年発行)という記録を編集出版した。そのときに他の障害、盲学校、ろう学校について調べることがあった。そこでわかったことは前述のように後回し、行政の無策、放置ということであった。

山梨県立盲唖学校は、甲府空襲で被災した人のために校舎を病院に提供することを求められ、終戦後に養蚕農家であった校長の自宅に疎開した。蚕棚に盲児、聾児を寝かせた。

東京都立聾唖学校は、保護者会長の縁で神奈川県(相模湖周辺)の4つの寺に分散疎開した。

愛知県立名古屋盲学校は疎開先が空襲を受けるなど転々とし、戦後4年経った1949年に新校舎に入ることができた。疎開先は旧制中学から新制高校に変わり、新しい教育制度のもとで教育活動をしていたが、盲学校はその片隅で疎開生活を続けた。

全国の障害児学校の学童疎開の事実を調べているが、なかなか容易ではない。疎開に参加した教員、卒業生は高齢化している。各都道府県史、教育史などには障害児学校疎開の事実が記録されていないことが多い。国民学校疎開については、卒業生の証言などを含めてかなりのページ数を取っているにもかかわらず、障害児学校については無視しているところが多い。

困るのは、各学校ホームページの沿革史に疎開の事実を記載していない学校の多いことである。確かに疎開というのは、学校にしてみれば負の歴史かもしれないが、校地外で生活し、学習したという事実は無視してはいけないのではないか。

とにかく、真っ先に保護されなければならない障害児が戦争の被害を真っ先に受けているという事実は明らかにしておく必要がある。数人の研究者とともに参加卒業生の話を聞き、疎開地を歩き、数少ない文献を調べるということを細々と続けている。

慣れない土地、食料不足

東京盲学校は富山県宇奈月温泉に疎開したが、雪が深く、生徒たちは雪下ろし、便所の汲み取り、食糧確保などの仕事に追われた。戦時中、戦後は都会でも食糧難だったが、成長ざかりの子どもたちにとっては一番の苦しい思い出だったようだ。買い出し、抜け出して買い食いなど、どの学校の卒業生にとっても最大の苦しい思い出。

その最たるものは、清里に疎開した藤倉学園である。空腹を訴えることもできない知的障害児、訴えられてもどうしようもなく、ただ抱きしめるだけの職員、疎開は弱者に苦しい人生を押しつけたのである。

学用品が足りないということも大変だった。点字紙、ざら紙、その他の文具も手に入らず、学習に苦労した。疎開先が会社の寮、民家などの場合、狭く、暗く、手話、相手の口元などがよく見えなかったということも語っている。

運動するところがなく、街中を歩いたり、少し空き地があるとそこで運動した。

学校は比較的通いやすいところ、県庁所在地などにあったが、疎開地は交通不便なところが多く、通学、帰省などは障害をもつものにとっては大変なことで、一日がかりの仕事になっていた。

本校が焼けなかった場合でも町の中心部にある場合が多いので、軍、役所、病院、戦後は進駐軍などに接収されることがあり、元の校舎に復帰できなかったケースも少なくない。

今私たちは疎開した障害児学校の事実、疎開できなかった、特に知的障害児の記録を求めている。

(まつもとしょうすけ 元都立養護学校教諭、「光明学校の学童疎開を記録する会」代表)


全国障害児学校学童疎開の状況

県名 学校名 疎開期間 疎開先
宮城 宮城県立盲唖学校 1945.7.21~1945.10.24 県内栗原郡宮野村
東京 東京都立聾唖学校 1945.5.15~1947.4.1 神奈川県津久井郡与瀬町
東京市立聾学校 1944.8.21~1946.4.1 東京都足立区花畑町
東京聾唖学校 1944.9.15~1946.12.5 埼玉県高野村・百間村
東京盲学校 1944.9.15~1946.3 静岡県・富山県
日本聾話学校 1945.4~1945.ー. 長野県小県郡滋野村
東京都立光明国民学校 1944.5.15~1949.5.28 長野県更級郡上山田村
神奈川 横浜市立聾話学校 1944.7~1948.11 横浜市(南区)井土ヶ谷
私立馬淵聾唖学校 1944.3.31~1945.10.15 横須賀市・鎌倉市内
山梨 山梨県立盲唖学校 1945.7~1946.9 山梨県西八千代郡共和村
愛知 愛知県立盲学校 1945.10.30~ 県内一宮市・津島市(再)
愛知県立聾学校 1945.8.27~1946.2.4 県内知立村(再)
岐阜 岐阜県立聾唖学校   山間部(場所不明)
富山 富山県立盲唖学校 1945.9.15~1948.12.26 県内婦負郡矢八幡村
大阪 大阪市立盲学校 1944.11.6~1945.10.28 府内高槻市大字原
大阪府立盲学校 1945.5.26~1945.10 (初等)富田林(中等)枚方
大阪市立聾唖学校 1944.6 枚方町、分校(香里校舎)
大阪府立聾口語学校 1944.9.13~1945.10.20 八尾、泉北郡2、奈良県
大阪市立思斉国民学校 1945.4.15~1946.11.4 府内県北郡南池田村国分
兵庫 兵庫県立盲学校 1944.4.8~1945.6.30 校内(寄宿舎・神戸市)
神戸市立盲学校 1944.1~1947.1 神戸市内
徳島 徳島県立盲聾唖学校 1945.8.1~1946.8.1 県内穴吹高女、富岡高女
高知 高知県立盲唖学校 1945.7.15~1945.8.31 県内高岡郡黒岩村
広島 広島県立盲学校 1945.4~ 双三実業学校
広島県立聾学校 1945.4.5~1946.12.16 県内高田郡吉田町
山口 山口県立下関盲唖学校 1945.5.10~1945.9.20 県内厚狭郡二俣瀬村
佐賀 佐賀県立盲唖学校 1945.9~1947.7.19 佐賀市→佐賀郡春日村(再)
長崎 長崎県立盲学校 1945.6.23~ 県内西彼杵郡長与村
長崎県立聾学校 1945.5~ 県内高来郡加津佐町
熊本 熊本県立盲唖学校 1945.5.17~1945.9.24 県内下益城郡延用町
熊本県立聾学校 1945.7~1945.9 県内
大分 大分県立盲唖学校   大分市内
宮崎 宮崎県立盲学校 1945.5~1946.2 県内西諸県郡野尻村
宮崎県立聾学校 県内山田町

[注]当時の障害児学校全132校中、直接・間接に戦争被害にあったのは108校。このうち学童疎開を行った学校は上表の34校である。疎開先にある(再)とは再疎開のことである。
調査 松本昌介氏・竹下忠彦氏

[参考資料]「信遭路はるか一光明養護学校の学童疎開ー』等
ホームページ「語り継ぐ学童疎開」より転載(http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub31.komeigakko.htm