音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

  

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年8月号

文学やアートにおける日本の文化史

新内の横丁から

坂部明浩

戦後70年の節目に、本コーナーでも明治~平成にわたり101歳を生きられた邦楽・新内節(しんないぶし)の岡本文弥(ぶんや)師匠(1895年~1996年)の体験と記録(名編集者、文筆家でもあられた)を辿(たど)りながら、明治~昭和期の一般には知られることの少なかった障害をもつ芸能者や不遇な人生の人々にスポットをあててみたい。

文弥師匠は、1950年に自宅兼お稽古場として東京下町の台東区谷中(やなか)の横丁に小さな一軒家を建てられてから、三味線の音(ね)が流れるようになり、いつしかこの横丁は“おけいこ横丁”と地元で呼ばれるようになる。

盲目の柳家紫朝(やなぎや しちょう)

谷中生まれの“文弥さん”だが、父親の仕事の関係などで居を転々しながらも、新内をやっていた母親の影響で新内の世界に自然と興味をもつ。

当時、新内と言えば、富士松加賀太夫(ふじまつかがたゆう)と盲目の柳家紫朝が人気を二分していたという。特に加賀太夫ほどの“花”がないものの玄人好みの新内の語り手であった紫朝のことを、文弥さんは、

「(東京の)下谷、湯島というと、この人のことを語らないわけにはいかない。あたしが聞いた新内の中で最も感激し、最も尊敬する盲目の柳家紫朝です。…46歳という若さで死んだこの人の墓も、あたしの家の裏手、谷中坂町一乗寺にあります」と語る(『長生きも芸のうち―岡本文弥百歳』森まゆみ著)。さらに、

「(寄席の)上野の鈴本でも年に1回、独演会をやりまして、おかみさんが下谷同朋町の姐さんですからその人が切符は売るし、大へんな盛況。もう1人、盲目の新内語りがいて、これに三味線をひかせ、三段くらい語りました。階段まで人でいっぱいで、あたしはこの踊り場で有名な日本画家の上村松園が人待ち顔で立ってたのも見ました」と言う。まさに分野を超えた人気だ。

紫朝は1873年富山に生まれ、直後より盲目の身となる。新内では当時、日本一と聞こえた久留米の盲目の富士松紫朝の下へ飛び込む。練習は出来ないと水牛のバチで叩かれたり厳しかった分、その甲斐(かい)あって僅(わず)か2年半で一人前の芸になった、と自ら身の上を語っている(明治39年『文芸倶楽部』の柳家紫朝の記事を文弥さんが『邦楽の友』125号に再掲載)。

文弥さんは柳家紫朝の師匠の久留米の富士松紫朝の墓参もされ、子孫の方との文通も欠かさなかったとのこと(同126号)。のちに文弥さんは豆本『紫朝哀唱』もまとめている。そして今、同じ東京、台東区の下谷で芸者置屋の主人でもあった柳家紫朝の没後、谷中おけいこ横丁のすぐ裏手の一乗寺にやってきて静かに眠っているのだ。

威張ったことが嫌い

新内には、他の邦楽にはあまり見られない特徴の一つとしていわゆる「新内流し」がある。文弥さんも大正6年頃より夜ごと、湯島や吉原の街を流して歩かれたそうだ。

そうした庶民と接する経験からだろうか、威張ったことが嫌いという。その思いが戦前の日本が軍国主義へ向かう時代(昭和5年頃)に文弥さんを刺激する。働く者を元気づける新内の創作をする。が、それはいつしか「赤い新内」という政治がかった言葉で独り歩きもする。まさに、今月の本誌特集である戦争の時代の直前のこと。

この時代、地方でさえも公演には圧力もかかる。たとえば、新潟の高田でも演奏後の感想で文弥さんの「『西部戦線異状なし』が良かった」と答えた客が住所氏名を書き留められたりと検閲の対象となっていく(『文弥芸談』57頁)。ちなみに、この頃、新潟の高田では、盲目の瞽女(ごぜ)がまだ活躍していた時代である。杉本キクイという盲目の女性の所で、新たに弱視の女性の加入を得て(手引きしてもらうことがたやすくなり)、いよいよキクイが師匠となってますます本格的に演奏の旅に出る時期にあたっていた(『瞽女 キクイとハル』川野楠己著)。

文弥さんがキクイたちと出会ったという記録はないものの、新内流しの経験のある文弥さんが彼女たちと出会っていたら…と思う。

1964年、70歳になった文弥さんは、中国から「民俗芸能を守る会」の代表として招待を受け、訪中。その時、名もなき盲目の奏者阿炳(あびん)(1893年~1950年)のことを知る。

阿炳は、両親を早くに亡くし、江蘇省無錫市の道教寺院の道士の養子として音楽教育を受け、16歳で楽士となる。30歳を過ぎて片目を失明。その頃に、民間音楽と伝統劇の節まわしに愛着を覚えると、音楽好きの阿炳は、たとえば結婚式や葬式の囃(はや)し方の行列に入って演奏もするようになる。しかし民間音楽を軽蔑していた道士たちからは、道士の体面を汚されたと破門させられてしまう。そして35歳の時には全くの盲目となってしまう。

阿炳は他人の家で施しを受けず、芸で生活を支えるために町を流して歩いた。胡弓(こきゅう)も琵琶(びわ)もよく弾きこなし歌もうまく作詞もした。朝、町で新聞タネを聞かせてもらい、午後には節や拍子をつけて歌い出す。世の中の悪玉の罪行を歌にしてあちこちで歌い続ける。やがて傀儡(かいらい)政権が出来、抗日戦争のニュースが新聞で見られなくなると、阿炳は傀儡政権に不利なニュースを歌ってたびたび警告を受ける…。

流して歩く、威張るものに対する反発、芸に対する厳しさ、いずれも文弥さんの心を捉えたことは言うまでもない。

文弥さんは、早速豆本『めくらあびん』を作って日本で初めて彼を紹介し、その後も、阿炳の命日(12月4日)に毎年のように偲ぶ会を開いている。

(以上の阿炳の記述も『めくらあびん』の内容からまとめさせて頂いた)

行倒(いきだお)れ淀君(よどぎみ)

文弥さんは明治になって途絶えていた新内の岡本派を再興された方でもある。その岡本派が途絶える前の明治期に、一世風靡(いっせいふうび)したのが岡本宮子であった。実力派というより、その美貌から落語席の花として当時の書生をとりこにした宮子。やがて落語家・禽語楼(きんごろう)小さんの妾となることで、大看板の小さんの傘の下で威張っていたことから「楽屋の淀君」のあだ名がついた。が、やがて小さんが死ぬと、誰からも相手にされなくなり、一気にどん底へ。

明治35年3月、桜の花も咲くに間近い折り、季節外れの大雪に、ついに宮子は行倒れとなる。養い親に育てられた身の上から、今こうして芸人としての最後の尊厳を閉じようとする宮子。そしてそれを見守る道行く人々…こうした岡本宮子の実話をもとにした文弥さん創作の新内が「行倒れ淀君」という昭和10年の作品だ。

そして、この作品の最後に「養育院」という気になる言葉が登場する。当時、行倒れた者が連れて行かれた場所。まだ福祉政策などの確立していない明治初期から、行倒れの者も、障害者も、病人も、ホームレスも等しく収容されたのが養育院であった。

訓盲院や精神病院といった分野別の障害へと分かれていく前の時代の象徴でもある「養育院」という言葉を、こうして実際に、そこに運び込まれる者の話として曲として残されること自体、生きた歴史の証言であり、語り継ぐべき遺産(決して綺麗(きれい)事ばかりでない負の遺産も含めて)と言えよう。今の福祉を学ぶ人たちにもぜひ知って頂きたいことである。

そして、岡本宮子のように、明治~大正初期に養育院で亡くなった身寄りのない人たちの無縁仏のお墓が、これまた谷中のおけいこ横丁から5分のところにある了俒寺(りょうごんじ)さんで今も手厚く管理をされている(「養育院を語り継ぐ会」による説明碑もあり、散歩で訪れる人が立ち止まって見て行く)。

「行倒れ淀君」を創(つく)り語ることが、現実に無縁のお墓に眠る岡本宮子の供養にもなり、それ(その事実)がまた作品に深みを与え、ファンを呼び岡本派の再興がより確かなものへと繋(つな)がる…。

こうして縁も無縁も障害も、不思議と緩やかに結びついてきた谷中の横丁。この横丁は、今日でもなお、文弥さんのもとで弾かれていた岡本宮之助さんがお師匠となり、おけいこ横丁の名に相応(ふさわ)しい三味線の音色が道行く人をも楽しませてくれている(年に一度?の公開日の体験も楽しみの一つだ)。

※東京・板橋にある東京都健康長寿医療センターの源流は養育院であり、2年前病院内に養育院・渋沢記念コーナーが設けられた。

※明治時代、養育院の院長は長らく実業家でもあった渋沢栄一が務めたが、その舞台裏で奔走したのが、当時の府知事、大久保一翁(いちおう)。彼は江戸時代からこの構想を温めていたという。幕臣であった大久保一翁は文久2年頃より江戸開城へ向けての任務?のため、一時期この谷中一乗寺のそばに拠点を置いていたことも知られている(菊地明 共著『江戸切絵図を歩く』)。激務の中だが、たぶん養育院の構想もこの地で温め、候補地を考えていたが故に、維新後、府知事として谷中から数分先の上野に速やかに養育院をつくる音頭をとれたのではないか。福祉と芸能は、江戸と明治の境目にあって交差していく(たとえば当道座が廃止され、福祉の対象となっていく)中で、偶然とはいえ、岡本宮子と養育院を巡る横丁での縁は、奇遇に思えてならない。

※この横丁のさらに奥に、ろう者監督による映画『ゆずり葉』で男女のアツアツの名場面を撮ったヒマラヤ杉の一角がある。

(さかべあきひろ 谷中在住、文筆家)