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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年10月号

文学やアートにおける日本の文化史

村上鬼城
―代書屋の視点から

小林英樹

筆者は、俳句に関しては全くの門外漢のため、村上鬼城(1865~1938)のことを知ったのは、花田の労作『心耳の譜』1)によってであった。俳人と言う以外何も知らなかったので、同書を手にした時も、アウトサイダー臭紛々の名前の方に、まず興味を覚えた。姓は村上海賊を彷彿させ、名はまつろわぬ民の立て籠もる根城をイメージさせる。聴覚障害であることと相まって、この俳号(本名は、村上荘太郎)からは、破天荒な人間像が思い浮かぶ。しかし、読み進めていくうちに、これがとんでもない誤りであることに気づいた。そして、彼の本職が当時「代書屋」と蔑称されていた司法代書人であったという箇所で、筆者の目がピタリと止まった。なぜなら筆者の職業は行政書士であるが、これは昔「代書屋」と呼ばれていた時代があったからだ。つまり、鬼城とは同業ということになる。もちろん、当時と今日とでは、仕事の内容は大きく異なる。しかし、彼に対する親近感が格段に増したことだけは確かであった。筆者には、鬼城の作品を論評するだけの能力はないので、この「代書屋」という一点に絞りつつ、彼の人生を紐解いていきたい。

村上鬼城は、慶応元年(1865)、鳥取藩士小原家の長男に生まれる。彼の聴覚障害は生来のものではなく、幼少期はもとより青年期に至るまでずっと健聴者として過ごしてきた。彼の生きた時代背景を知る上で、『坂の上の雲』が参考になろう2)。この小説では、日露戦争で活躍した秋山好古・真之兄弟、正岡子規の3人を中心に物語が展開される。鬼城は若い頃軍人を志し、後年子規の門人となるわけだから、この3人とは共通点が多く、まさに「坂の上の雲」を目指して坂道を駆け登った若者達の一人であったと言えよう。

しかし、19歳で職業軍人を志願したことによって大きな挫折を味わう。すなわち、この時の身体検査によって、難聴が発覚するのである。当然不合格であり、軍人への道も絶たれることとなる。そこで明治法律学校に入り、次なる目標を裁判官と定め、それに向かって邁進する。しかし、この夢もついにはかなわなかった。それだけではない。この司法官試験の勉強の最中、次々と不幸が降りかかってくる。まず、彼は24歳で結婚するのだが、その4年後には、唯一の経済的支援者であった父親が他界する。しかも同じ年に、まだ若い妻にまで先立たれてしまうのだ。突如、2人の娘を養わなければならぬ男やもめとなった鬼城は、もはや司法官試験どころではなくなり、法律の知識を生かして手っ取り早く稼げる方法として、裁判所で司法代書人になる道を選ぶ。しかし裁判官を目指していた彼にとって、「代書屋」に甘んじなければならないことは耐えがたい屈辱であった(心耳の譜、62頁)。

当時の代書屋は、裁判所の人民控室に机を置いて、そこで依頼人が来るのを待っていたようである。現在の裁判所にこのような職種は存在しないが、法務局の近くに軒を連ねている司法書士のようなものをイメージすればいい。

そして、現在の行政書士もそうなのだが、司法代書人の仕事も恐らく定型業務が中心であったろうと推測される。つまり、依頼人からすれば、誰に頼んでも大して違いはないのである。もし他人に真似のできない仕事であれば、藁にでもすがりつきたい依頼人にとっては、その者に障害があろうとなかろうと、どうでもいい話である。しかし代書業は、余人をもって代え難い仕事ではなかった。従って鬼城の聴覚の問題も、単なるマイナス面としてしか見られていなかった可能性がある。

もう一つ、「代書屋」の業務に付随する、別の側面についても言及しておきたい。

従来、法律家には専門知識のみが要求されると考えられていた。しかし、ADR(Alternative Dispute Resolution、裁判外紛争解決手続)という新しい考え方が登場し、日本でも平成16年にADR法が成立した。ADRとは、裁判以外の方法によって紛争の解決を図ることである。たとえば、カウンセリングなども取り入れ、当事者同士の納得による心理的和解を模索したりする。筆者もこの研修会に参加したことがあるが、その時、講師の弁護士の口から「モモ」という言葉が出てきた時には正直びっくりした。「モモ」とは児童文学作品のことであり3)、「はてしない物語」と並ぶミヒャエル・エンデの代表作である。この物語では、天涯孤独の少女モモが村の円形劇場に住みつき、これを憐(あわ)れに思った村人たちが最初モモにいろいろと施しを与えようとする。しかしやがて、助けられているのは自分たち自身の方であることに気づく。それは、訪ねてくる者たちが抱えている悩みをモモに打ち明け、彼女がその話にじっと耳を傾けていると、それだけで自然と問題が解決されてしまうからである。廣田は次のように指摘する。

「まず、ただひたすら聞くという方法である。ひたすら聞いているうちに、当事者自身が紛争の意味を知り、いろいろな気づきをして、解決方法を見つけてしまうことがある。これは、紛争解決の一つの理想の姿であるが、児童文学の『モモ』に出てくるので、モモ方式と言ってよいであろう」4)

ここで強調されているのは法律知識ではなく、傾聴である。しかし、これに近い取り組みは、きっと昔から行われていたに違いない。裁判所の門をくぐる者の多くは、悩みを抱え、心に深い傷を負った人々である。彼らは、法律と関係あろうがあるまいが、鬱積(うっせき)した憤懣(ふんまん)やる方なき感情のとぐろを、全部吐き出してしまいたいと思っている。故に法律業務においては、傾聴の姿勢が欠かせないわけだが、ここでも鬼城の前に、聴力障害という壁が立ちはだかる。すなわち、心の問題に耳を傾けることは、鬼城にとって至難の技であったからだ。そのため依頼人たちは鬼城に対して、物足りなさを感じていたのではなかろうか。

また、花田は、補聴器が依頼人から不潔で汚らしいもののように見られていた点を指摘する(同書、102頁)。これは一般人にはなかなか気づきにくい、障害者作家ならではの鋭い分析と言えよう。補聴器は、感覚器官の機能を補う道具であり、その意味ではメガネと同じはずだが、メガネに対してこのような嫌悪感を抱く者はいない。これは、心理的差別が物に「化体」した結果であろう、と考えれば説明がつく。つまり、聴覚障害者に対する根深い差別感情が、彼らの使用する道具にまで投影されているということになる。

しかし、補聴器は、鬼城にとってギリギリのコミュニケーション手段であったに違いない。他にも、筆談という方法があるにはあった。現に同書には、鬼城が筆談で行なった座談会の様子が紹介されている(168頁)。この中で鬼城は、毒舌も交えて思いのたけを縦横無尽に語っている。しかし、これは門人相手だからこそできた話であり、裁判所で依頼人相手に筆談を使うことには強い抵抗があったと想像される。

『筆談ホステス』5)が話題となり、テレビドラマにもなった。聴覚障害をもつ女性が筆談によって銀座のナンバーワンホステスになっていくという実話だが、これは類(たぐい)まれな美貌と独創的な接客術があったからこそ可能だった話であり、誰にでも真似のできることではない。今日法律職の者が、筆談だけで職務をこなすことが可能かと言えば、やはり首をかしげざるを得ない。今は手話通訳で相談業務をこなす聴覚障害の弁護士もいるが、このような対応が一般化するには、まだ時間がかかるだろう。ましてや1世紀近くも昔の話である。彼が裁判所で、肩身の狭い思いをしていたことは想像に難くないのだ。

それや他の要因が重なり、50歳を過ぎてから、鬼城はとうとう裁判所をクビになってしまう。再婚した彼は一人の子宝に恵まれ、この時にはまだ成人していない子どもが何人もいた。そのため彼は、人生最大の苦境に立たされることとなる。しかし、長い熟成期間を経て磨きぬかれた才能の爆発が起こり、「ホトトギス」のスターダムへと一気に駆け上がる。そして、俳人としての本格的な活動が始まることによって、経済的難局も何とか乗り越えることができたのである。その活躍ぶりは、高浜虚子をして、「鬼城の聾は、社会的には不幸だが、文学的見地からすれば必ずしも不幸ではない」と言わしめたほどであった。

しかし、それについて語ることはこの小論の任ではない。児童文学風に「それはまた別のお話」(That's another story)と、本稿を終えることとしたい。

(こばやしひでき 行政書士)


【参考文献】

1)花田春兆著『心耳の譜―俳人村上鬼城の作品と生涯―』こずえ、昭和53年

2)司馬遼太郎著『坂の上の雲』文藝春秋、1972年

3)ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳『モモ』岩波書店、1976年

4)廣田尚久著『紛争解決学』信山社、2002年、225頁

5)斉藤里恵著『筆談ホステス』光文社、2009年