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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年10月号

列島縦断ネットワーキング【長崎】

離島で念願のALS患者の24時間在宅介護を実現
~壱岐の島で事業所立ち上げの取り組み~

クラウゼ江利子

2014年夏、入院から8か月、長崎県壱岐市という離島に住む高齢の父は念願のわが家に帰ることができました。神経難病ALSと診断されてから、その時点でちょうど2年でした。現在、1日24時間のヘルパーの介護を受け、1年数か月になります。その間に気管切開と胃ろう増設をしました。

告知後、ALSについて無知だった私は、居住先のドイツに戻り、インターネットで情報を集め、状況把握のため、方々に連絡を取り始めました。すぐに、重度訪問介護という国の制度を使って生活しているALS患者が島外には多数いることを知り、それが壱岐でも使えれば、父は家でずっと暮らすことができると思いました。すぐに地元の関係者に連絡を取りましたが、壱岐では重度訪問介護の周知さえされていない状況で、利用者は一人もおらず、利用できる事業所も無いことが分かりました。

このままでは父にはあまり時間が無い、人工呼吸器をつけても永久入院しか無いと分かり、直ちに短期帰国しながら在宅療養への活動を開始することにしました。頼れる味方が誰もいない中、ネットで知り合った全国障害者介護保障協議会(0120-66-0009)は、主に制度についての指南や、行政へのアプローチの仕方を具体的にメールや電話でアドバイスをしてくれました。しかし、動くのはもちろん自分しかいません。患者家族とは言え、いち素人で、おまけにドイツから通いながらどこまでできるのか、不安でした。

次の短期帰国で、重度訪問を利用した在宅療養中のALS患者を訪ねた後、壱岐に渡りました。そして父の口から、家に住み続けたいという意思確認と母の同意を得て、訪問看護の所長に話をしたところ、島で唯一、神経内科のある光武病院の空閑(くが)院長に繋(つな)いでもらいました。すると、私の短期滞在中に、急遽(きゅうきょ)、関係者を召集してくれることになりました。介護保障協議会のアドバイスで、会議用に重度訪問介護についての資料も準備しておきました。会議では院長の理解も得られ「今後、壱岐市でも重度訪問をやろう」との声に、出席者の賛同を得ることができました。

その後も、短期帰国しながら(昨年は5回、2週間~1か月程度)、各地の現場を見学し、当事者や専門職に話を聞いた後、壱岐に渡ることを繰り返し、市、福祉・医療関係者との会議を重ねました。特に市に対しては、計画書提出を前に、ALSへの理解や父の状態を知ってもらうため、病院をあげて協力してもらったこともありました。すでに父は気胸をきっかけに入院していたので、看護師による入院中の父の状態を客観的に証言してもらったり、専門医に現症を書面にて提出してもらい、見守りの必要性を訴えました。

そのほか、介護保障協議会の指導のもと作成した24時間の重度訪問介護の支給交渉用の資料等を提出しました。その甲斐(かい)あってか、審査会の後、間もなく壱岐市より、月744時間(毎日24時間)という希望通りの重度訪問時間数が支給決定となりました(なお、本州のALSの友人夫婦は、市町村との協議が難航したため、介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット(0120-979-197)の支援を受け24時間以上の支給決定を受けました)。

壱岐市より支給決定が出た後も、なかなか既存の事業所では、重度訪問介護の利用ができませんでした。島内の事業所は短時間のサービスしかできない登録ヘルパーが中心で、連続8時間以上のサービスを原則とする重度訪問介護に対応できませんでした。

そこで、介護保障協議会の関係団体である東京のNPO法人広域協会が壱岐にヘルパー営業所を作ることとなりました(ALSの在宅支援を東京で行なっているさくら会と協力して実施)。早速、地元で無資格未経験者を中心に求人し、間もなく常勤4人と(うち無資格者3人)、准看2人(1人は常勤で管理者兼サービス提供責任者になった)も見つかり、管理者は東京のさくら会で研修を受け、重度訪問介護事業所の省令通知などについて広域協会で教育を受けました。無資格者は、東京の広域協会で重度訪問介護のヘルパー研修を終え、東京のALS患者宅を見学しました。その後、壱岐に戻ってすぐ1日2~3交代で24時間365日の勤務が始まることになります。

退院の日、自宅に着いた時、半ば帰宅を諦(あきら)めていた父は号泣していました。多くは語らない父ですが、やっぱり家に帰りたかったのです。苦労が報われた瞬間でした。

あらかじめ病院でヘルパー全員、父の状態と基本的な介助方法や吸引指導を受けていましたが、医療ケアが必要な患者を家に帰すことは壱岐市では父が初めてで、ましてや状態も一定ではない進行性の疾患に、ヘルパーと家族だけで対応するのはとても不安がありました。深夜の唾液誤嚥による呼吸苦や連夜の体の痛みで、一晩に何度も訪問看護を呼んだこともありました。

それでもそのうち、訪問看護や医療とも連携がうまく取れるようになり、不安も軽減され、みんな落ち着いて行動できるようになっていきました。おかげで、胃ろう増設や気管切開のタイミングを逃すこともありませんでした。

1年数か月経った現在、非常勤一人も加え、職員数7人になり、全員が口文字での意思疎通(父の体調による)、吸引(同意書で1年、その後3号研修)、外出介護を含めた24時間のすべての介護をしています。そして、自分たちのやっていることを客観的に見、さらなるALS在宅療養のイメージ作りのために、全員が交代で、島外のALS患者の自宅介護の現場に2泊3日等で見学研修をしています。また、月に一度は父の訪問医、及び医療専門職とヘルパー全員の会議を開いて状態の確認をしています。ここまで小回りが利くのは、事業所一つで介護を対応しているからでしょう。

壱岐市では交渉の結果、入院時コミュニケーション支援事業が、今年4月よりすでに施行されており、時々ある短期入院中も、いつものヘルパーがいつものローテーションで24時間個室の病室に付き添っています。家族や父の不安も解消され、事業所のリスクも激減することとなりました。ここでも壱岐市の理解と、入院時のヘルパー受け入れを認めてくださった光武病院の理解には大変感謝しています。

ALSの療養現場では、随時問題が噴出します。ここまで誰一人ヘルパーが辞めて行くことが無かったのは、軽度のうちからヘルパーが関わっていたこと、度重なる困難の中でも連携が取れていたこと、前向きさ、そして母の存在が大きいと思います。当事者である父は80歳という高齢で、望んでいた当事者主体にはなり得ませんが、母がうまく舵取りできているのは、父の痛みだけでなく、ヘルパーの痛みも分かっているからでしょう。

先日、神経難病患者の交流会を行いました。患者3人と家族がただ集まって話す機会を設けるだけでも気持ちが救われるし、情報共有ができます。今後、父のような選択もあることをさらに広め、家で暮らしたい患者や家族の応援をしていけたらと思っています。NPO広域協会では、壱岐市で今後、他の重度障害者にも対応したいと考えているそうです。

海外に住んでみて分かることですが、日本人のチームワークは海外に誇れるものでしょう。帰省のたびに、各地のALS患者の現場を見学させていただき、つくづくそう思います。離島の壱岐でもヘルパーさんたちと父が体を張って証明してくれています。父のことが、壱岐市だけでなく、全国で同じように困っている人たちの励ましだけでなく、前に進む勇気に繋がることを切望しています。

(クラウゼえりこ ドイツ在住)