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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年12月号

1000字提言

「ある事件」

佐藤一

忘れられない事件がある。

2001年4月末。東京・浅草の路上で、レッサーパンダの帽子をかぶった男に、女子短大生が殺された事件だ。加害者は札幌市出身で当時29歳だった。今は、無期懲役の刑を受け服役している。

その陰で加害者の妹アキコさん=仮名=が亡くなっていたことはあまり知られていない。

事件から数か月後、彼女を取材した。両腕に携帯用の酸素ボンベを抱え、鼻には管をあてている。髪の抜けた頭をバンダナで覆う。体は思うように動かない。肺や脳が腫瘍で侵された末期がんだった。

「これまで楽しいことなんて一度もなかった」

何度も何度も繰り返し訴えた。彼女にそう言わせた25年間とは何だったんだろう。

大好きだった母は中学1年の時に病死し、家計を支えるため、中学卒業後から働き始めた。家事も担った。兄は家出を繰り返し、盗みなどで刑務所を行き来していた。

そして父。生活費を渡してくれてもすぐにお金を引き出してばかり。21歳ごろ発病し、仕事も休みがちになり、生活は苦しくなった。貯金は父の小遣いに消えた。兄が事件を起こしたのはちょうどそのころだ。逮捕前に警察官がアパートに来て、父が事情を聞かれる。外には多くの報道陣。体調がすぐれず、寝たきりの状態だった。

しかし、思わぬ転機が訪れる。兄が高等養護学校の卒業生だったことから、知的障害者を支える福祉関係者が出入りするようになる。アキコさんは「家を出て、一人暮らしをしたい」とお願いした。関係者は思いを受け、アパートを用意。医師の派遣や訪問看護の準備、そして日々の生活を支えるため、公的ヘルパーのほか、大学生や主婦らボランティア約30人が24時間、見守る態勢を整えた。みんなはこれを「地域ホスピス」と呼んだ。

亡くなるまでの7か月間。部屋では寝食をともにし、時にはスーパーに買い物に出かけ、盛り場にも繰り出した。「自己実現の旅」と題して、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行き、三重では伊勢エビを食べ、温泉に入った。ディズニーランドにも行った。アキコさんは「もう少しだけ生きていたい」と漏らすこともあった。

願いはかなわなかったが、アキコさんは人生の最後に、自らで生きた証を残して去った。通夜の時、関わった人が一人一人あいさつした。共通していたのは「いっしょに同じ時間を過ごせてありがとう」という感謝の思いだった。

ある福祉関係者が言う。「悲しいことだが、兄の事件がなければ、妹さんの存在はみんなに分からなかった」。もっと早く福祉の手が届いていれば、異なった展開もあったはずだ。そう思うとやりきれない。


【プロフィール】

さとうはしめ。1963年生まれ、北海道新聞生活部記者。北海道警裏金報道取材班の現場キャップとして、日本新聞協会賞、菊池寛賞などを受賞。現在は労働問題や累犯障害者の支援などの取材を続けている。