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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年1月号

文学やアートにおける日本の文化史

俳句史にかがやく病障害者たち

中原徳子

私が所属する俳誌「からまつ」の主宰は由利雪二。私の都立光明養護学校小学部5、6年時の担任で、後年幾つもの聾学校・養護学校長を歴任された。その関係で「からまつ」には養護学校(現特別支援学校)の校長、教員、父母が多く集う。当事者としては、脳性マヒ等が私を含めて4人、他に難聴や脳血管疾患による片マヒなど。元副主宰篠原暁子は若いころは結核、近年は神経難病で苦痛と不自由の裡にある。さらにさかのぼれば、「からまつ」の前身「白魚」の主宰川戸飛鴻は、臼田亜浪の「石楠」の俳人だが、幼少時に罹った結核性関節炎のため右脚切断、義足だった。

湯たんぽへ伸ばす片足より無かり
苺いく粒か今朝は摘めよう義足はく
飛鴻

このように、障害者やそれに関わる人が多いのは「からまつ」の特殊事情かもしれないが、どの結社にも少なからずいる筈(はず)である。結社に属さず新聞・総合俳誌等に投句する人も多いだろうし、インターネット句会への参加やブログでの作品発表も。

もともと障害者と俳句は親和性が高い。紙と鉛筆(いまはパソコンや携帯・スマホ)があれば、いつでもどこでもどんな状況でも俳句は作れるのだから。俳句・短歌は病気や障害や貧困を武器にできるジャンル、という見方さえある。

前置きが長くなったが、本誌編集部より与えられたテーマ「近現代俳句史の障害者」について稿を進めたい。

近現代俳句史は正岡子規に始まる。陸羯南主幹の新聞「日本」に拠り文芸活動を展開、俳句と短歌の革新に邁進し、結核性の脊椎カリエスに冒され35歳で死ぬまでの7年間は子規庵で病臥の裡に、「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」等を書きに書き、句会歌会を開き仲間と語らい論じ合い、驚異的な食欲を見せ、いのちを燃焼し尽した。俳句の「ホトトギス」、短歌の「アララギ」という二つの大河の源は、清冽な湧水ではなく熱く滾(たぎ)る源泉だったと言えようか。

いくたびも雪の深さを尋ねけり
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
子規

続いては、子規と書簡を交し俳句を志した村上鬼城。聴覚障害のため軍人志望を断念、高崎裁判所の司法代書人を生業とする傍ら、「日本」「ホトトギス」に投句、子規亡き後は高浜虚子に師事、頭角を現す。聴覚障害の上に子福者(なんと10人!)、生活は貧窮したが、志高く俳句に向かい、境涯の俳人として明治末から大正期、全国に名を馳せた。

冬蜂の死にどころなく歩きけり
痩馬のあはれ機嫌や秋高し
鬼城

鬼城については、花田春兆著『心耳の譜―俳人村上鬼城の作品と生涯』(こずえ、1978年)に詳しく、同書を底に俳人ではなく代書人の側面に照準を当てた小林英樹氏の論考(本誌2015年10月号掲載)があり、興味深く読ませていただいた。

大正期の境涯俳人としては、鬼城と並んで富田木歩の名が挙げられる。木歩は1歳の時の高熱から両下肢マヒ、歩行不能。学校にも行けず、いろはカルタや軍人めんこで字を覚え、ルビ付きの少年雑誌で漢字を習得、俳句を知る。放蕩者の父親の死、姉妹の遊郭への身売り、弟は聾唖、のち弟妹の結核罹患と死、自身の結核闘病…とこれでもかという不幸に見舞われながらも、淡々と清新な境涯詠を亜浪の「石楠」や虚子の「ホトトギス」に投句。20歳の頃、「石楠」で木歩の俳句に胸打たれた慶応大学生新井声風が訪ねて来て、以来終生の篤い友情を結んだ。6年後関東大震災の日、隅田川畔にて業火に果てるまで。

我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮
夢に見れば死もなつかしや冬木風
木歩

この悲劇的な最期もあり木歩の生涯を描いた小説や評伝は数多いが、その嚆矢(こうし)は花田春兆の『鬼気の人―俳人富田木歩の生涯』(こずえ、1975年)である。逆境にありながら晴朗さを失わなかった木歩の精神性を浮かび上がらせている。ちなみに、木歩の死後、声風が編んだ『定本木歩句集』に載り、『鬼気の人』にも使われている木歩生前唯一の写真の原版は川戸飛鴻から貸与されたものと言う。「石楠」で同じ障害者ということでつながりがあったのだろうか。

時代は昭和に移る。昭和初期の「ホトトギス」黄金時代を担った4Sの1人、阿波野青畝は奈良に生まれ育ち、幼少時の耳疾で難聴だった。十代半ばから俳句を学び、奈良に来遊した虚子と出会い、師事する。弱冠25歳にして「ホトトギス」課題選者になり、やがて地元で創刊された「かつらぎ」の主宰となる。4Sのほかの3人(水原秋櫻子、高野素十、山口誓子)がいずれも東大・京大出のエリートであるのに対して、青畝は中学卒の学歴だったが、客観写生に主観と諧味を加えたおおらかな句風を確立、一派を成した。

狐火のまこと顔にもひとくさり
山又山山桜又山桜
青畝

同時代の「ホトトギス」にはまた、異色の盲俳人緒方句狂がいた。句狂は福岡・赤池炭鉱の抗夫だったが、30歳の時ダイナマイト事故で両眼摘出。療養中に句作を開始、直截な境涯詠を作り続けた。

脳天に雷火くらひしその刹那
長き夜とも短き日ともわきまへず
句狂

「客観写生」「花鳥諷詠」を唱えた虚子だが、句狂のほか脊椎カリエスの圀弘賢治や両眼失明片耳失聴の安積素顔など境涯の作家にも目を配っていたのである。

結核を患った俳人は枚挙にいとまがないが、その代表格は石田波郷である。松山に生まれ、17歳で五十崎古郷(脊椎カリエスで松山高校を中退、秋櫻子に学んでいた)に師事。秋櫻子の「馬酔木」を経て「鶴」を創刊・主宰。内面を見つめ人間性に根差した俳句を追求。加藤楸邨、中村草田男、篠原梵とともに「人間探求派」と呼ばれた。戦中に罹った肺結核で手術・入退院を繰り返しながら「俳句=人生」の歩を進め、俳壇の第一人者となった。

吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
霜柱俳句は切字響きけり
波郷

女流境涯俳人の筆頭は野澤節子だろう。13歳で脊椎カリエスを発病、長年病臥の生活を送った。亜浪門の大野林火と出会い、生涯の師と敬慕。37歳でカリエスが完治してからは、精力的に著作活動、後進の指導を行なった。「蘭」創刊・主宰。

冬の日や臥して見あぐる琴の丈
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ
節子

大野林火は、ハンセン病の俳人村越化石を育てたことでも知られる。化石は、旧制中学の時に病気が発覚、退学離郷し東京の病人宿で療養。その後、草津の栗生楽泉園に入所。俳句会に林火の指導を請い師事。「最後の患者」たる気概をもって生活や心象を詠み、「魂の俳人」と称された。2014年3月、91歳で永眠。

除夜の湯に肌触れあへり生くるべし
どこ見ても青嶺来世は馬とならむ
化石

そして、われらが花田春兆である。重度脳性マヒ者にして抜群の知力と行動力で障害者の文化活動・社会運動を牽引して来られた。俳句のみならず、文化の担い手としての障害者の役割を掘り起こした功績は大きい。今般、第16回ヤマト福祉財団小倉昌男賞特別賞を受賞された。卒寿の巨星が一段と輝きを増す。

歩かぬは流離より憂し業平忌
大くさめ思案くるりと裏返る
春兆

紙数が尽きた。大雑把(おおざっぱ)に教科書をなぞっただけの感あり、勉強不足を恥じる。原子公平、折笠美秋、住宅顕信など取りこぼし多々。また、心の病・精神障害を取り上げないのは片手落ちであろう。原石鼎や杉田久女の例。中村草田男や上田五千石も青年期に神経衰弱に悩まされた。現在の若手俳人では佐藤文香や御中虫など。文脈からは外れるが、御中虫の「おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ」は衝撃的。当事者として奪われる前に投げ棄てる句を作らねば、と思う。

(なかはらのりこ 「からまつ」同人)


【参考文献】

・花田春兆著『日本の障害者―その文化史的側面』中央法規、1997年

・荒井裕樹著『障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会へ」』現代書館、2011年

・松村多美著『野澤節子―ひたすらのいのち』北溟社、2013年

・村越化石自選句集『籠枕』文學の森、2013年

・稲畑汀子編著『よみものホトトギス百年史』花神社、1996年。他。