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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年5月号

1000字提言

病名のつかない人びと2
患者会の窓口で

おしたようこ

私が患者会で担当している相談窓口には、「病名がつかない」という悩みを抱えた人が少なからず訪れる。“慢性疼痛”といってもいろいろな病気があり、一定の基準を満たせば何らかの病名がつくのだが、どれにも当てはまらない人が相当数いる。『病名はつかなくても、使う薬や治療は似たりよったりなんです。きっと良くなりますよ』と声はかけるのだが、そんなの的外れというか、慰めにもならない。

皆さん口をそろえて、『今自分を苦しめているのが何の病気か知りたいんです』と言う。はっきりした病名がつくということは、医師という社会的に信頼される者から、「あなたは○○という病気なのだ。嘘をついているわけでも、わざと痛そうにふるまっているわけでもないんだよ」とちゃんと証明してもらえる、ということでもあるのだ。アイデンティティの置き場がやっと見つかる、と言ってもいいかもしれない。

私たち痛み持ちにとって、不快な症状は生活の一部である。痛みや不快感などに集中しすぎないように自分をつくりかえていかないと暮らしていけない。「自分は○○という病気と向き合って生きている」という確証みたいなものがないと、心のよりどころが見つけられないのだ。

病名がつかないと、他の不利益も生じる。ただでさえ、いわゆる「指定難病」でなければ、医療費の補助は受けられないのである。病名のつかない人は、最初から蚊帳の外、ということになってしまう。

“難病”の克服を目指すとき、治療研究の推進という側面からみれば、病名は必要なのだそうだ。科学的に治療の効果を証明しようと思えば、まず「ある病気の状態」を明確に定義しなければならない。こんな症状があり、こんな検査でこんな結果が表れる人をその病気と決める。そこをまずはっきりさせない限りは、新しい薬や治療が、どのような効果をもたらすのかを実証できないらしい。

しかし、その“難病”であることで二次的に生じる苦労の克服…医療費負担や失職による経済的不安に対して手当てする、という福祉的側面からみると、病名なんてあまり意味がないのではないか。どの人も同じように、病気をきっかけにして経済的な不安を抱えてしまうのだから。

特にただでさえ治療のめどが立ちにくい、病名のつかない状態の人にこそ、せめて何らかの福祉的支援が先に必要だと思う。自分が一体何の病気なのか、という不安とたたかいながら複数の病院にかかり、たくさんの検査を受けなくてはならないので膨大な医療費がかかる。治療も定まらないので、心身の障害の状態も重い。

指定難病一覧表の一番最後・307番目に、「病名未確定の状態」をぜひ入れてほしい。


【プロフィール】

アラフォーの主婦。難治性慢性疼痛疾患である線維筋痛症等々の持病のために、家事はほぼ放棄して、布団の中でスマホと戯れていることが多い。時折布団から這い出して「(NPO)線維筋痛症友の会」理事、「今後の難病対策関西勉強会」実行委員、など、出会った人との縁のなかで見つけたいろんなことをして、ぼちぼち暮らしている。