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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年8月号

支援を受ける立場から

親たちの「おしゃべり会」から見えること

福井公子

「豊かさ」と「危うさ」のなかで

「5時まででいいから預かってくれるところがほしい、親の会で声を上げてくれないか」。そう言って学齢児の親たちが私のところに来たのは、ついこの前だったような気がする。あれから声も上げないうちに、人口4万ほどのわが市にも、児童発達支援と放課後等デイサービスの事業所が立ち上がった。近隣の地域にも同じような事業所がいくつかでき、急に親たちの様子は変わってきた。

「音楽療法は、やらないんですか?隣町の○○は、やってますけど?」「送迎は、どこまで?」。事業所の説明会では親たちの強気な質問が飛び交う。「えっ、預かってくれるだけでよかったんじゃないの?」。喉(のど)まで出た言葉を私は呑み込む。

特に人気があるのが、多機能型の大きな法人。「法人内の連携により、将来に見通しが持てる支援体制を整えています」というキャッチフレーズ。パンフレットには、就学前の発達支援から、就学時はもちろん、卒業後の就労支援や生活支援までの一連がポップなイラストで載せられている。「将来のために、この法人の児童デイは外せない」と言う親がいれば、「でも、それは逆に事業所から選ばれているのかもしれないよ」「能力が高くて仕事ができる人が事業所はほしいのよ」と、誰かが言う。彼女たちの会話を傍らで聞きながら、「そんなことはないよ」と、私も言いきれない。

法人の役員も引き受けている私には、事業所側の事情も見える。そこでは、「××人、利用者を獲得した」「他の事業所より利用時間を延長したところ、利用者増につながった」などの報告がされる。支援内容に注文を付けても、まずは利用者が増えなければ経営が成り立たないのだと言われれば、それ以上の言葉が私には出ない。

福祉の世界も市場主義になってしまったとつくづく思う。そして、能力主義になってしまったと背筋が寒くなる思いもする。就労支援は進んだものの、工賃の高い事業所が、それだけで評価される仕組みになっている。働ける障害者にならなければ世に出られないのだろうか。措置の時代を経験してきた私には、今の時代の豊かさも、その危うさも、くっきり見える。

「療育」「訓練」がもたらすもの

私たちが、親たちの「おしゃべり会」を開いている市の保健センター。隣の部屋では発達相談も行われている。3歳児検診は、今や発達障害のスクリーニングとも呼ばれていて、いわゆる「引っかかった」子どもたちが対象だ。年々増え続けていることは、保健センターの慌ただしさで実感する。ここから、ケアプランが立てられ、発達支援センターにつながると同時に、病院の言語訓練に多くの子どもが通うことになる。小学校、中学校まで訓練を続ける人もいる。医療費が無償であることを利用して、病院での訓練はいつまでも続く。そして、そんな子どもたちを不用意に「障害児」と呼んではいけないのだ。あくまでも「発達に気がかりのある子ども」であり、「特別な支援の必要な子ども」なのである。親はそうしておきたいのだ。訓練や療育の期間が長引けば長引くほど、親は子どものありのままを受け入れることを先延ばしにできる。しかし、それは親にとっても子にとっても幸せなことだとは私には思えない。

理想と現実のねじれ

ついこの前、私たち親の会で『みんなの学校』の上映会をした。多様な子どもたちを、普通学級で受け入れた実践として話題になっている映画だ。学齢児の親たちからぜひにと要望があったもので、予想以上の入場者があった。「こんな学校に通わせたい」「本人を変えるよりも、まず周りが変わらなければ」などと、多数の感想も寄せられた。けれども、「それって、矛盾している」と、私は思う。

親たちは、療育・訓練の方向にニーズを上げてきたのではないか。将来の就労に備えるためにと、中学・高校は特別支援学校に集まっているのではないか。この矛盾した現象は何なのだろう。

40歳の息子をもつ私には、児童期に直面した親たちの切実な想いを語ることはできない。しかし、距離を置いて見えることもある。

療育も訓練も社会化され、親が抱え込むしかなかった時代から見れば、羨(うらや)ましい限りだ。しかし、強気に見える今どきの親たちも、私たちと同じように「共に学び、共に暮らす」社会を、ほんとうは求めているのではないだろうか。障害のある子どもが、ありのままを受け入れられるのは、そんな社会の中でこそだということを親たちは直観しているのかもしれない。親たちが、子どもを発達させなければという焦燥感から解放されるのも、やはりそんな社会の中でこそだということも、どこかで気づいているのかもしれない。

しかし、現実的には何かがねじれてしまっている。渦の中にいる人には渦の正体は見えにくいのかもしれない。

療育や訓練へと向かってしまう親たち。就労のためにと、特別な教育の場を求めざるを得ない親たち。その表面的なニーズの裏にこそ、本当の問題が隠れているのではないか。

私たちが、「共に学び、共に暮らす」社会の実現に、真っ直ぐに声を上げられるように、何がどうねじれてしまっているのか、今こそ、検証する必要があるのではないだろうか。

(ふくいきみこ 阿波市手をつなぐ育成会会長)