音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年8月号

解説 障害者差別解消法 第3回

教育に関する差別と合理的配慮

大谷恭子

■インクルーシブ教育の実現に向けて

権利条約は基本概念としてインクルージョンを掲げているが、これは教育においてはより意識した形で規定されている。差別解消法も、法の目的として、障害のあるなしにかかわらず共に生きる共生社会を目指すとしているのであるから、基本理念としてのインクルージョンはもとより、教育における差別及び合理的配慮についてはインクルーシブ教育の観点から論議検討されなければならない。

■就学先決定における排除・制限と合理的配慮

文科省もこれを意識し、権利条約批准直前の2013年9月、まずは制度的差別としてあった、障害の種類と程度によって原則として就学するべき学校を振り分ける就学システムを変更した。しかし、これは原則分離別学としてあった就学システムを、保護者の意向を尊重しつつとしながらも、障害の種類と程度、学校の受け入れ態勢等々を総合的に判断して決められると変更されただけであり、共に学ぶことを原則とする、と変更されたわけではない。しかも、就学決定において判断するべき事項として、まずは教育提供者である教育委員会及び学校に合理的配慮を提供する義務があるのだ、ということは必ずしも意識されていない。このことによって以下の問題が生じている。

たとえば、小学校入学について、地域の小学校への就学を求める保護者と教育委員会との間で見解が異なった場合、まずは保護者の意向が尊重されるべきであるし、これが受け入れられないとするなら、そのことについて教育委員会は、客観的な情報に基づき(主観的なできるはずがないということではなく)、十分に説明する義務を負う。共に学ぶことが原則であり、共に学ぶ場から排除し、共に学ぶことを制限するということであるなら、これが正当だと主張する教育委員会は、本人の教育を実現するためには分離せざるをえず、あるいは分離することによってしか教育は実現しえないということを、客観的な資料情報によって主張立証しなければならないということである。

さらにより重要なことは、教育委員会はまずは合理的配慮の提供義務を負っているのであり、地域の学校で共に学ぶことを実現するための合理的配慮として、何が必要で何ができるのかについて、保護者と十二分に協議し、合意形成に努めなければならないということである。

これら2つの基準、共に学ぶ場から排除・制限することにやむを得ない理由が存在するのかどうかということと、共に学ぶための合理的配慮は何か、それが提供しうるかどうかということ、これらは独立した基準ではない。まずは、合理的配慮の提供義務が吟味され、その合理的配慮を尽くしてもなお共に学ぶ場から排除・制限せざるを得ないのかどうかが問題なのである。とするなら、およそほとんどすべての事例は、合理的配慮の具体的な内容の問題に帰結するはずである。

たとえば、医療的ケアを要するがゆえに地域の学校で共に学ぶことから排除・制限せざるを得ない、と決めつけるのではなく、医療的ケアを地域の学校で実現するためにどのような合理的配慮が必要か、それを実現することは可能かどうか(教育委員会に「過度の負担」を強いることなのかどうか)が問題なのであり、これを尽くしてもなお共に学ぶことから排除せざるを得ないのかどうか、この順に吟味されなければならないのである。そして、合理的配慮とは、変更と調整という幅のある概念であり、全く何も提供できないということはあり得ない。結局、合理的配慮を誠実に提供さえすれば、排除制限に正当な理由があるなどという場面は想定できないのではなかろうか。

■高校進学における排除・制限と合理的配慮

わが国の高校進学は中学卒業生の98%を超え、もはや準義務教育と言っても差し支えない。この中で、毎年、知的障害者の高校進学が難航している。これは高校進学が、選抜主義を取り、「高校修了見込み」を学力テストによって判定するからである。もちろん高校進学時の合理的配慮として、テストの際に、たとえば時間を倍にするとか、筆記補助者をつけるとかの合理的配慮で一定の点数が取れる場合は、比較的進学しやすい。要するに、テスト方法に対する合理的配慮で「修了見込み」を弾力的に判断し得る場合である。

問題は、全く点が取れない場合、どうするかである。それはテスト方法の問題ではなく、高校が現に掲げている「修了見込み」そのものを変更調整できるのかどうかの問題である。テスト方法によっては乗り越えられない社会的障壁を、テストの評価方法・評価基準そのものを変更調整することによって合理的配慮として求めることができるのか、これを提供する義務が高校側にあるのかどうかである。それは高校教育の目的をどうとらえるかの問題でもある。

すなわち、高校修了という一定の学力をつけることだけが目的なのか、あるいは、16歳のいまだ社会に出る前の一定期間を同世代と過ごし、社会性を身につけることもその目的に加えることができれば、しかも準義務化し、同世代の98%以上のものが進学しているという実態を踏まえれば、同世代のものと過ごすということも十分教育の目的としてとらえることができるはずである。

点が取れなくても高校進学を、これの合理的配慮として評価基準についての変更調整を認めることが、喫緊の課題である。

(おおたにきょうこ 弁護士)