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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年10月号

フォーラム2016

相模原殺傷事件に思う

小幡恭弘

容疑者は、一人の人格を否定してしまう最たる行動に至った。著しい人権侵害、生命の抹殺行為である。当事者、家族、ひとりの人間として、いかなることがあっても許すことはできない。

報道では、措置入院歴のあることが一斉に発信された。まるで精神疾患があること、精神科病院にかかっていたことが、事件を起こした原因であるかの印象を与えた。精神障害者に対する偏見・差別を助長するのではないかと危惧している。

国は事件の検証と再発防止の検討会を立ち上げ、措置入院の見直しなど、事件を口実に検討をはじめた。これでは予防拘禁的対処にならざるを得ない。同じ見直すならば、人権と人生に重大な影響を与える強制入院の在り方そのものについて問うべきである。

今回の事件解明で、重度の知的障害がある当事者(の視点)からの聞き取りはどのようになされ、どのくらい事件解明に活(い)かされるのであろう。通常の事件ならば、現場検証や事情聴取を含め、被害者から相当の情報取集が行われるはずではないのか。もし、障害への配慮を理由に排除され、親や支援者(の視点)からのみ取り扱われるとしたら不十分な調査という印象を私は持つ。成人期に達した一人の人格が、本当に一市民として尊重され、受け入れられているのであれば、事件の解明や対策には欠かせないはずである。

私たちの中に「そんなことは酷だよ、障害を配慮してあげないと」などの良心的な思いから無意識の間違った配慮による差別を生んでいるということはないのであろうか。

「なぜ、障害や精神疾患をもつものだけが、施設や病院の利用者として一市民と切り離される扱いを受けるのか」「制度や家族に任せきりや、見て見ぬふりが無意識で起きてはいないのか」「本当に障害をもたれている方を障害者である前に、一人のかけがえのない唯一無二の存在として受け止められているのか」を自らに問うている。

最後に、障害者権利条約のいう権利保障は、実はすべての人の人権基準の要でもある。精神科医療や福祉の名による隔離収容型政策を許すのであれば、人権の原理原則は形骸化し、無意識の偏見・差別や再び容疑者のような考え方を生んでしまうのではないか。このことを無視していては、容疑者の特異性にのみ目を奪われ、問題の本質を追求しきれない。

この瞬間も施設では職員と利用者が生活をしている。障害者の人権を守り発展させるには、地域で普通の生活を送るための国の財源を伴う誘導措置や教育が急務である。

(おばたやすひろ 公益社団法人全国精神保健福祉会連合会事務局長)