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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年11月号

3.11復興に向かって私たちは、今

私の震災以降の体験談

井筒雄一朗

津波が陸前高田を襲う

私の住んでいた町内は、商店街を中心とした大町町内会という自治会であった。140人ほどからなる小さな町内会だったが、半分の人が、今回の震災・大津波により亡くなってしまった。海岸線より2キロ。海が見えることはない。海が意識されることはない。だから直前まで、津波が来ることを理解できなかったのである。

私の家族は、4人だった。父と母と祖母と私。父は、地元のコミュニティーセンターに勤務していた。コミュニティーセンターは、市役所の近くにあったが、住民の避難誘導をしている最中に津波に巻き込まれたという。また、母と祖母は家にいて、おそらく車で避難しようとしていたのだろう。しかし、祖母はすぐには動けなった。胸騒ぎのようなものがあったに違いないだろうが、避難しようという発想自体がなかったのかもしれない。

地域に大津波が襲来した時、これまで聞いたこともないものすごい音が聞こえた。私は、瞬間的に一体何が起こったのかを理解した。津波がこの陸前高田という小さな街を、無情にも飲み込もうとしていた。私は、何も考えず必死に逃げたのである。

作業所“きらり”との出合い

多くの人が一瞬にして、尊い命を失ってしまったわけだが、私もまた死んでしまうのだと考えた。何もなくなってしまった私は、一気に家族を失ってしまったことへのショックを受けながらこの後について考えた。

そうした状況の中で出会ったのが、B型の作業所きらりの伊藤勇一さんだった。伊藤さんは、見た目は、いかつそうで剛健な印象を受ける人だったが、内実はとても面倒見がよく、気さくで優しい人だった。そして、かなりおせっかいな人でもあった。私はよく歩く。何もなくなった街を私はよく歩く。車が止まる。伊藤所長であり、私を乗せて仮設の住宅まで送ってくれた。そんなことが何度もあった。

今は、B型の作業所きらりで働いている。きらりは、あまり高度な仕事はしていない。それぞれの利用者のレベルに合わせて軽作業をしている。私の作業は、アニマルポットの制作のお手伝いをすることだ。アニマルポットとは、漁業で使用される、いらなくなって廃棄されるはずの浮き球(ブイ)に、新しい生命を吹き込むものだ。リサイクル作業だ。浮き玉を二つ用意して、穴を開けて、針金でつなげる。一つは、頭。もう一つは、胴体。頭の部分に、この作業所の職員の吉田さんが、青いチョークで猫の顔を描く。そこに、ドリルで穴を開け、胴体の部分を針金で結び、アニマルポットは完成する。「あんまり役には立ってないけどな」そう苦笑する吉田さん。吉田さんの批評は、総じて辛らつだ。私は、それでも割と当てにしているんじゃないのかと思う。

障害者の目線に立ったまちづくりへの試み

きらりとの出合いは、さまざまな人々との交流を私に与えてくれた。

陸前高田市の戸羽太市長は、とてもユニークな人で、さまざまな提言をしている。戸羽市長が掲げたまちづくりの構想は、「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」であった。まさにゼロからの出発となった陸前高田。障害のある人も社会参加を果たしていこうという趣旨のもとに「陸前高田福祉計画策定会議」が設置された。新たなまちづくりに対して、障害をもった人が、それぞれの視点から議論し、市政に反映していこうという試みであった。精神疾患の人、車いすの人、耳が不自由な人、目が見えない人、その立場はさまざまである。その会議に私も参加していた。

2014年3月、震災の日の前後に合わせて、策定会議の様子がEテレで取り上げられ、反響を呼んだ。それがきっかけで、地元の災害エフエムで番組を持たせてもらうことになった。番組は視覚障害のある熊谷賢一さんと2人で、番組名は「ゆうけんの部屋」。取り上げた話題は、賢ちゃんが中心となって行なっているお出かけ支援グループ“そよ風”の活動紹介。陸前高田市福祉プラン策定会議の様子。B型のあすなろホームの活動について。あすなろホームの問題児こと、マー君の詩の朗読など。その他、何と戸羽市長や副市長まで番組に出演していただいたりした。

ラジオで私が念頭にしていたことは、風景である。障害をもつ人が、手軽に自分を表現できる場所作りのことである。おそらく、こうした仕掛けはある程度成功したのだろう。その後、この番組は終了するが、この時のご縁で、高田コミュニティーエフエムで番組作りや放送のお手伝いをしながら、私自身の社会参画とか、社会復帰へとつなげていきたいと思っている。

終わりに

震災後、私は多くの方々にお世話になった。今も多くの方々に支えていただいている。いろんなことを経験して分かったことは、やってみなければ、何にも分からないということであった。世の中はそれほど私を拒絶していなかった。今後も、少しずつ社会的な活動をやっていきたいと思うのである。

(いづつゆういちろう 就労継続支援B型事業所 作業所きらり)