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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年12月号

文学やアートにおける日本の文化史

ヘレン・ケラーとアラカワ丸

坂部明浩

メモリー オブ ヘレン・ケラー

東京の三鷹からバスで約10分の所に、突如カラフルで摩訶不思議な立体の寄せ集まりともいえる集合住宅が現れる。現代芸術家、建築家の荒川修作氏とパートナーのマドリン・ギンズ氏による「三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー」だ。3戸×3階建で9戸。多くは賃貸でそれ以外にはショートステイや見学用に利用されているというが、2005年に建って以来、見学会は今も人気で、賃貸はいつも満室のようだ。後ほど説明するように、室内は床に凸凹や傾きもあり、バリアフリーとは程遠い空間であるが、そこに「ヘレン・ケラー」の名前が付けられていることに、大いに注目してほしい。

「この住宅は、ヘレン・ケラーが身体を使い、自然と環境・人間の関係を知ったように、あなたの身体のもつ大いなる希望を見つけ、生命の無限の力を体験できる、まったく新しい住宅であり、命の器なのです」(当パンフレットより)。

早速、この建築を体験してみたい。

ここを体験する者には、まず建物の「使用法」が渡される。ここからすでに荒川氏らの“作品”であることを思い知らされるのであるが、たとえば最初の入口のドアの使用法には、「扉から入る時には、一歩踏み出す前に目を閉じてください。そして体内の様々な場所の温度ばかりではなく、住戸内のあらゆる場所の温度にも意識を集中させてみましょう」とある。

入口のドアは、いわゆるプッシュ-プル・タイプのドアノブで、今では一般住宅の玄関ドアでごく普通に見られるが、以前のように把手を握って回しながら押したり、引いたりして玄関を開けるのではなく、たとえば外側から開ける場合なら、把手を引く力がそのままドアの止めを外し、回すことなく1つの動作だけでスムーズにドアを手前に開くことができる。私自身サッシの会社に勤めて居た1980年代に、画期的なドアノブとして登場、その後に社協のバリアフリー展にも出品した。荒川氏がそこまで意識したかどうかは分からないが、握って回すことに囚(とら)われない分、内外の環境変化を敏感に肌に感じながら入ることができる。

入ると、そこは大きな円形の部屋だ。部屋のど真ん中にはカウンターのある台所があり、それを囲んでリビングになっている。床は土間のような感じのコンクリで無数の凸凹ができている。フラットではないため足裏の土踏まずをこの凸凹が刺激してくれる。また、床と天井は気づかない程度の傾斜をつけている。

その大きな円形の部屋の360度の円周に沿って3、4か所に小さな部屋(球形カプセルのような部屋や丸い畳のある部屋など多彩な部屋)がくっついており、全体で2LDKや3LDKの住戸となっている。ちなみに、どの部屋にも据え置き式家具が見当たらない。その代わりに、天井のあらゆる所から荷物を吊るすことが可能だ。ハンモックもブランコだって出来る。

天井まで届く棒やはしごもなぜかある。住居の内側にあって、アウトドア感覚でもある不思議さ。「動物のふりをして、住戸内を動きまわりましょう」とか「(吊り具や棒で)林や森を作る」と利用法にあるのも頷(うなず)ける。

『ヘレン・ケラー自伝』(ぶどう社)の中で、サリバン先生との散歩で木登りをし、先生がそこから離れたわずかな間に、枝の上で一人で休んでいたヘレンに「太陽の温かみは失せ」「木が身震いをし」「風が吹き荒れて」振り落とされそうになるという、自然の優しさと同時に怖さを知るシーンがあるが、まさに、吊り具はそのシーンの再現のようでもあった。

その意味では中央に、台所があるのは、ヘレン・ケラーの井戸でのWATERという言葉の再・発見にも近しい。じつは台所のさらに中央にある柱は大黒柱ではなく、中は中空で水道管などが通っていると知り、この建物全体が水を中心とした植物のように“生きて”いることを確認できた。「この家に引っ越して来たらすぐに、天井の中央部に名前、あるいは表題をつけましょう」という利用法はまさに、実際の水=“WATER”のように言葉に対応させていくことと同等であろう。

アラカワ丸

ヘレン・ケラーはサリバン先生が来て、WATERの再・発見をする以前、つまり教育が始まる前の自分は、濃い霧の海を羅針盤のない状態で進む船であったと書いている。船。じつはヘレン・ケラーは昭和12年に初めての来日を果たすのであるが、その時は客船『浅間丸』に乗って横浜港に上陸。日本中を巡って歓迎されたわけだが、この時の「船」にこだわったのが現代の荒川修作氏(とマトリン・ギンズ氏)であった。

浅間丸に偶然乗り合わせた中に、当時、物理学の最先端をいく量子力学(原子のミクロの不思議なふるまいの研究)のニールス・ボーア氏が居たからだ。この2人が互いに“見えない”世界について深い会話を交わしたという荒川氏の直感だ(『ヘレン・ケラーあるいは荒川修作』参照)。2人に会話の機会があったかどうかは史実として残されてはいないようだが、可能性は大いにある。そして多分、その可能性からずっとそのことを作品に反映させてきたのが荒川修作氏と言っても間違いない。

彼は1961年に、最初はアーティストとしてNYに渡り、デュシャンやオノ・ヨーコ氏などとも交流し問題作を発表しつづけ、さらには量子力学者のハイゼンベルグに注目されるなど、科学、哲学などを総合する「コーデノロジスト」と名乗るようになった、その原点はここにあったともいえよう。

私がこのコーナーの読者に知っていただきたかったことも、単に視聴覚の障害への関心からアートへ、というありきたりの出合い方でなく、身体のもつ本来的な覚束なさ(と量子力学のミクロな世界での位置と時間の覚束なさ)からヘレン・ケラーに出会ってしまえるのであるという一点だ。それも「文化史」としての「船」の出合いを知れば、こそなのだ。

荒川修作氏は、本当は天命反転住宅の窓も斜めにすることにこだわっていたそうだ。建築基準法などで実現はしなかったものの、それでも斜めの床や天井は船の中の揺れを模したものだと私には思えてきた。かつての羅針盤のない船から量子力学の世界との出合いを経て、その船はやがて身体感覚や生き方を日々更新する船になって現代に姿を現した。命を運ぶ船、天命を反転するアラカワ丸だ。

(海老名熱実氏に、戦前の建築家は実際にも横に連なる船室の窓などを、陸上のモダニズム建築の参考にしたという論考「窓にみる船とモダニズム建築の交差」もある。海の揺れを表す(?)斜めの窓というアイデアはそれらをも凌駕していたことになろう。)

さて、そのアラカワ丸(天命反転住宅)には、実際に住んだ人(映画監督)が創った『死なない子供、荒川修作』という映画もある。そこで生まれ育った監督の子どもも登場。「死なない」ことはこの住宅のテーマでもある。命へのこだわりに荒川修作氏がその中で答えている。じつは彼の幼少期に医者の手伝いをして、彼が抱きかかえた同年代の少女が彼の手の中で息を引き取ったというのだ。命の灯が消えてしまったこと。

ところが、不思議なことにヘレン・ケラーにも似た経験があった。彼女が天界についての宗教や生き方の奥深さで影響を受けた18世紀のスウェデンボルグの思想を最初に知るきっかけとなった恩師で、高齢のヒッツ氏との再会。駅で彼がヘレンと手を握った直後に心臓発作でこの世を去ったのである。ヘレン・ケラーは嘆き悲しむと同時に、死んで終わりになることなく来世に繋(つな)がっているという確信を得て、心の支えとしたということである。(『ヘレン・ケラー 光の中へ』)

私はそれを知った時、即座にこの天命反転住宅の冒頭のドアを思い起こして、次のように確信した。

命の揺れる船室のような空間に繋がるこのドアの内と外で、把手に互いに手をとっていたのが、ヘレン・ケラーとヒッツ氏。はたまた荒川氏と少女。そして、ヘレン・ケラーと荒川修作氏であったのだ、と…。

※ヘレン・ケラーの最初の来日の翌年の頃、本誌編集委員で当コーナー担当の車イス作家・俳人の花田春兆さんは、父親からヘレン・ケラーの自伝をそっと渡されたという(『雲へのぼる坂道』花田春兆著)。よくある話ではある。ところが、その父親こそ、ヘレン・ケラー来日の翌年に横浜港の横浜税関長を任された当事者であった! 文化史の不思議と醍醐味を感じずにはいられない。

(さかべあきひろ 介助業&著述業)