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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年4月号

時代を読む90

日本自閉症協会の発足

昭和27年にはすでに、わが国最初の自閉症症例の報告があった。当時、自閉症といえばレオ・カナーの幼児の分裂病としての認識であり、またアスペルガーのいう自閉的精神病質という理解であった。1970年代にラターが自閉症は中枢神経系の障害と報告するまでは、親の子育てが病気の原因であるという心因論がはびこっていた。冷蔵庫マザー、母原病など母親は批判された。

そして、親はカウンセリング、子には遊戯療法が主流であった。一方、子どもは、幼稚園、保育園、小学校どこにも受け入れられず、就学猶予が当然のこととされた。

昭和40年前後から親の教育を求める熱意が世論を動かし、メディアにも取り上げられるようになった。有効な療育がないなか、親たちは育児の相談機関を求め走り回った。東京では、カナーに接した牧田清志、アスペルガーに学んだ平井信義らの愛育研究所、武蔵野赤十字病院・心の相談室や子どもの生活研究所、児童相談所などが主な機関であった。

これら機関の医師・研究者らの後援で母親たちが昭和42年2月、東京自閉症児親の会を設立し、子どもの生活研究所に事務所を置いた。

この頃には全国各地に親たちの会が医療機関を中心に結成されていた。東京の動きを契機に神戸・大阪・名古屋・静岡の各代表が8月、大阪に集まり全国組織への道が開かれた。この後も東京に9団体が集まった。

昭和43年5月には、常陸宮殿下・妃殿下ご臨席のもと、第1回自閉症児・者親の会全国協議会全国大会in東京が開催された。全国協議会は、子どもたちの療育・教育・自閉症の理解啓発を目標とした。全国協議会は、社団法人日本自閉症協会から現在の一般社団法人日本自閉症協会へと発展した。

この間、子どもに教育の機会をという親の熱望から、学籍がなくとも通学するという例も見られた。普通学級担当教師の熱意から、昭和42年には、東京都公立学校情緒障害児教育研究会が発足し、翌年の全国情緒障害教育研究会へとつながった。

この教師と親の熱意で、昭和44年東京都杉並区において、最初の情緒障害学級が開設された。昭和49年には東京都が養護学級全入に踏み切り、昭和54年には養護学校義務制となった。しかし教育制度の混乱はなお続いている。

自閉症の最初の報告から現在まで、まず「自閉症」という精神病の一類型の名称を使用し、かつ漢字の字面から誤解される要因があった。自閉症の症状の多面性から研究者の学説に振り回され、また、自閉症の障害名は情緒障害、強度行動障害、学習障害、発達障害等々のレッテルのうちにも混在した。親たちも研究機関誌に「心を開く」と命名するなどの混乱を生んだ。昭和56年わが国最初の自閉症成人施設が開所以来、施設が増えたが、親亡き後の生活の見通しが不十分まま施設の有用性は今なお大きい。

(古野晋一郎(ふるのしんいちろう) 東京都自閉症協会役員)