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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年7月号

盲ろう者の自立生活

福田暁子

全く見えない、全く聞こえない世界に一人だけでいると、すべてのことが分からなくなることがよくあります。いま自分はどこにいるのか、いま朝なのか夜なのか、うっかりすると、私は存在しているのかしていないのかさえも分からなくなるときがあります。いま、どっちを向いていて、どこにいて、周りに何があって、人がいるのかいないのか…そのような自然と入ってくるはずの情報は、何ひとつ私には入ってきません。

私は、全盲ろうで、呼吸器と車いすを使って一人暮らしをしています。主に触手話で会話しています。重度訪問介護、盲ろう者向け通訳介助者派遣、手話通訳者の派遣を組み合わせて生活しています。

自宅は、唯一、安心できる場所です。家の中では、すべてのものに住所がありヘルパーは決まった場所に戻します。場所が分からなければ、勝手に決めないで「どこ?」と私に物を触らせて所定の位置を確認します。決まった場所にないと、いきなりあるはずのないものが手に触れたりぶつかってきたりして、自分の家なのに、まるでお化け屋敷にいるようで怖くなります。安心して帰る場所があれば、外へ出て行く気持ちもおきます。

情報がほとんど入ってこない中で生活するのは大変ですが、私の身体の一部となって情報を伝える人がいれば、私は情報を処理してどうするか決めることができます。毎日がサバイバルなときもありますが、「一人じゃないから大丈夫、何とかなる、何とかなってここまでやってきた」と思うと、私の毎日はチームプレーだからこそ、盲ろう者になる前よりもずっと面白いのだと思います。

盲ろう者が地域で自立した生活をするためには、一人ひとりの盲ろう者の見たいもの聞きたいものにアンテナを立て、伝えられる量に圧縮して、一人ひとりのコミュニケーション方法にカスタマイズして伝える「盲ろう者向け通訳介助者」の存在が不可欠です。

私自身はスポーツ、骨董品、イケメン、雲の様子などにはたいして興味はないので、一生懸命伝えてもらっても、受信エネルギーがそがれるだけだったりもします。

盲ろう者自身が自分はどういう人なのか知ってもらうこと、そして、通訳介助者も自分はどういう人なのかを知らせること、それがあって信頼関係ができ、はじめてチームとして成り立つのだと思います。お互いがどういう人かを知るだけの派遣時間数が足りないのが現状ですが、すべてはそこからスタートするのではないでしょうか。

盲ろう者が地域で生きるためには、通訳介助者、支援者はもちろん、社会全体に、寛容さと忍耐が求められると思います。一人ひとりの違いを受け止め、伝えることをあきらめず、どんなときもどんな場面でもどんな状態でも受け止め、可能性を探していく。盲ろう者として、地域に存在するということ自体がチャレンジでもありますが、もしかしたら、すべての人を受け入れる寛容な未来をつくるためのミッションかもしれないと最近よく思います。

以下、通訳介助者の石井弘恵さんに「盲ろう者の自立生活支援」についてコメントをもらいました。

私には敬愛する盲ろうの人がいます。大変な困難を抱え、それを乗り越えながら生きておられる姿を見て、心から尊敬します。私ならできるだろうかといつも思います。そういう様子を見て、私が「すごいね」と言うと、「ううん、私はいつも普通だよ。当たり前に生きているだけだよ」という返事が返ってきます。その明るい言葉に私はいつも勇気と元気をもらいます。

今回改めて、「盲ろう者の自立生活支援」について考えてみました。「盲ろう者への支援」は、「お世話」や「何かをしてあげる」ということとは違うと思っています。「支援」とは、一緒に時間を過ごす中で、盲ろうの人が、目や耳が使えないために不便なことがあったときに、その不便なところを助ける、求められたことを支援者のできる力を貸し助けるということではないかと感じています。

私が大事にしていることは、「盲ろうの人の主体性、自主性、心を尊重する」ことです。盲ろうの人と一緒にいるときは、情報の取捨選択と決定の連続です。まず、盲ろうの人のニーズをつかみ、それを満たすための情報は何かを探します。支援者の目や耳から入るあふれる情報の中で、今、この人にとって、一番必要な情報は何かを瞬時に選びます。それをその人に合わせた通訳手段で、支援者のできうる限りの技術を使って伝える努力をします。そして、それを受けた盲ろうの人が自分で判断し行動を決めます。

支援者はあくまでも盲ろうの人が自己決定するための材料を提供するのが役割だと思っています。ただ、盲ろうの人が自己決定するために大切にしていることは、情報提供だけでなく、その人の主体性を大切にしながら援助するということです。

支援者はでしゃばってはいけません。親切心からお節介な支援者になってしまうことがあるかもしれません。いつも、そういうことがないように心に留めて行動したいと思っています。また、何かをするとき、見える者がやれば早くてきれいにできるでしょう。しかし、盲ろうの人が望み、環境が許せば、時間がかかってもその場が汚れようと、私はご自身でやってもらうようにしています。支援者は、手を出すことは我慢し、見守りに徹した方がよいと思っています。

もうひとつ、支援者として大切にしていることがあります。それは、守秘義務です。盲ろうの人は、病気のこと、役所での手続き、銀行でのお金の引き出しなど、本来であれば、他人に知られたくないプライバシーをさらけ出さなければいけない場面が多くあります。そういう秘密を知ったときは、それを絶対口外しないように気を付けています。

そして、いつも真摯な態度で接するように心がけています。心から盲ろうの人を信じ、「見えなくて聞こえないからこのくらい分からないだろう」といういい加減な態度ではなく、いつも誠実に接すること。そうすれば信頼関係を築くことができ、お互いの信頼を深めることができると思っています。信頼関係がゆるぎないものになれば、少しくらいの心のすれ違いには、びくともしない関係を保てるはずです。

支援者としての喜びは、今まで孤独で誰とも関わりのなかった盲ろうの人が、制度につながり、「見えない聞こえないのは自分だけじゃない」と知り、仲間と出会い、交流を重ね、生き生きと過ごしておられる様子を目にすることです。とてもうれしく温かい気持ちになります。

作家の重松清さんの言葉に「友人とは、何かあったときにすぐ駆けつけていけること。離れていった人が帰ってきたときに、「おかえり」と言えること」とありました。普段は会えないけれど、何かあったときに思い出してもらえるような、私がいることで安心してもらえるような、そんな支援者になりたいと思っています。

(ふくだあきこ 全国盲ろう者協会評議員、武蔵野市地域自立支援協議会委員)